求めたもの 2



「先生は立派だった。強者こそが正義という世界においても、異彩の輝きを放っていた。自ら家族や友すら遠ざけ、ずっと自分の道を模索し続けていた」
 時は現在に戻り、荒涼とした場では少年がひどく歪んだ顔をしている。
「厳しい鍛錬や節制した生活、一切の欲を捨て去る事にも躊躇いがなかった。でも誰もが先生の考えを理解できる訳じゃない。僕だって結局、ほとんど分からず終いだった」
 かつてと違って体や手にはどこまでも力が込められ、その目はなおも正面の相手を捉え続けていた。
 ただし少女の方は意に介する様子もなく、ただ淡々と佇んでいる。
「だったら、他の人にはなおさら……。それでもなお、先生は求め続けた。自分の理想を成し遂げるため。世界を変えるため。でも結局、全ては無に終わった」
 対する少年は吹き付ける風を真っ向から受け止め、揺れる体を力ずくで抑えつけていた。
 尽きる事のない怒りや憎しみは今にも弾け飛びそうで、やがて相手に先んじるかのようにゆっくりと足を踏み出す。
「そうなったのも、最後に戦っていた相手のせいで……。どうして、こんな奴なんかに……。人の命なんて、何とも思っていない奴なんかに……」
 少しずつ距離を詰める動きは鈍いままだが、それでも前のめりになりながら勇敢に突き進む。
「先生は、殺されなければならなかったんだ……!」
 そして強い意志と共に腕を引き絞ると、激しい感情と共に勢いよく突き出す。
 思いの乗った拳はそのまま少女に向かうが、相手は瞬きもせずに眺めたままでいる。 腕はおろか体の一部がぴくりと動く事もなく、まるでそよ風に吹かれているだけかのようだった。

 すでに日が落ちかけた辺りは空ですら黒く染まりかけ、目に映る全てがいつもと違って見える。
 気付けば頭上では何羽もの烏が飛び回り、うるさい程の鳴き声を盛んに響かせていた。
「はぁ、はぁ……! せ、先生……!」
 周囲に漆黒の羽がいくつも舞い降りる中、少年は必死に階段を駆け上がっていく。
 やがて辿り着いたのはすでに打ち捨てられた廃寺であり、ほとんど人気は感じられない。
 壁や屋根などはどこもぼろぼろで、所々に穴が開いて荒れ放題となっていた。
「先生……?」
 眼前には半分しか残っていない壊れかけの戸が見え、少年はそこを不安そうにくぐっていく。
「うっ……」
 内部はごみや汚れで雑然としていたが、すぐにそれらとは明らかに違う異臭に気付いてしまった。
 独特の生臭さは血の臭いそのものであり、少年は思わず顔をしかめてしまう。
 それでも何とか目は閉じず、周りを見渡そうと目を凝らしていった。
「先生!」
 やがて少年は大きく目を見開くと、そのまま時が止まったように硬直してしまう。
 視線の先には天井から差し込む月明かりと、床に広がる血溜まりの上に倒れた男の姿がある。 うつ伏せのために人相は分からないが、よく知っている人物なのは恐らく違いない。
 そしてそのすぐ側には、寄り添うように立ち尽くす一人の人物の姿がある。
「……」
 少女は伏した男をじっと眺めたまま、返り血で真っ赤に染まる自分の体を拭う事さえしていなかった。

「何で、何でなんだ……!」
「どうやら……。お前はあいつとは違うようだな。外も中身も。振るう拳の類さえも。何もかもが違い過ぎる……」
 少年が溢れ出す激しい感情を拳と共に打ち出すが、少女はそれをすんなりと避けていく。
 以降も繰り返される攻撃を楽にいなし、一撃たりとも有効な攻撃を食らう事はない。
 はっきり言ってその動きは緩慢で、特に反撃するような意思すら感じられなかった。
「くっ、うぅ……! 何も、通じないなんて……!」
 一方で少年は血気に逸り、さらに蹴りや他の体術も柔軟に混ぜ合わせていく。
「正直、お前を始末するなど造作もない。瞬きの度に何度でも致命の技を繰り出せる。だがその前に、一つだけ疑問に答えてもらう。何故、奴は私に止めを刺さなかった」
 だが少女には何一つ通じず、優雅に踊るような動きは明らかに素人のものではない。
 踏んだ場数や実力に相当な差があるのは明白で、焦るばかりの少年とは対照的ですらあった。
「……」
 そして次に少年が拳を繰り出すと、動きを完全に見切った少女は体を捻るだけで簡単に避けていく。
「うっ。ぐっ……!」
 その上で足を引っかけるように動くと、それに躓いた少年は足をもつれさせながら無様に倒れ込んでいった。
「私は幼い頃からひたすら、素手による殺人術に磨きをかけてきた。師匠からも他人など全てを疑い、憎めと教えられてきた。全ては太祖から続く使命を守るため」
 少女はその様を見下すように眺めつつ、ふと思い付いたように口を開く。
「私は誰よりも強く、誰よりも貪欲にならねばならなかった。この身には延々と引き継がれてきたものを守り、次に繋げる義務がある。だが、だからこそあれが理解できない」
 その全身は脱力し切っているが、ほとんど隙らしいものは見当たらない。 周りに阿らず悠然と立つ姿は、どことなく誰かと似通っている風だった。
「あれも一応は、修羅の世界に生きる者のはず。勝者が全てという絶対の法を知っているはず。なのに何故、奴は……。あんな、愚かな選択を……」
「それは僕が……。いや、僕こそが聞きたい。本当の事を聞けるなら今からでも、何だってしてみせるさ……」
「分からない、分からない。奴にはそれ程までに手に入れたいものがあったのか。代々継承されてきた特別な戦技も打ち捨て、戦いに特化したあらゆる知識も忘れ去り……」
 少年がそれからもまだ地面に倒れ込んだままでいる一方、少女は頭を何度も横に振ると心底呆れ果てたように息を吐く。
「凡そ人の快楽とは無縁の人生を歩んでまで、どうしても手に入れたいものでもあったのか。あれからいくら考えても、それが分からない……」
「だから、僕に聞いてもどうしようもない! 僕には絶対、分かりようがない事なんだから……! もし知っているとすれば、それは先生だけで……」
 両者はどちらも自分でも気付かぬ内に手に力を込め、少年はさらに悔しさも込めて地面へ握り拳を叩き付けていった。
「それでも……! どうしても知りたい! 自分以外の誰かの考え、思った事を……。そんなもの、これまで気にした事もなかったというのに……!」
 すると呼応するように少女も声を荒げ、苛立ちをぶつけるように地面を踏み抜く。 その様にこれまでの冷静さは完全に立ち消え、かつてなく感情が露わになっているのが分かった。
「君は、一体……」
 少年はそんな相手を驚いたように見つめたまま、ゆっくりと身を起こしていく。
「いや……。やはり、もういい。別にお前を殺せとは言われていない。ここに来たのも、何らかの答えが得られるかと思ってだが……。どうやら、無駄足だったようだ」
 しかし少女は気を抜くように息を吐くと、もう興味を失ったかのように視線を逸らしていった。
 さらにこの場でする事はなくなったとでも言わんばかりに、足音も立てずに歩き出す。
「どうせこれから先も、奴の考えなど分かりはしないのだろう。死んでしまえば、何もかもがそこで終わり。どんなものも死の淵に呑み込まれていくばかりだからな……」
 それでも最後にふと覗いた横顔には、それまでなかった変化が見られる。 口元や目元はわずかながらも緩み、自虐的でも笑みを浮かべているかのようだった。
「……」
 少年はそれに目を奪われつつ、そうしているとふと脳裏には何かが思い浮かんでいく。
 眩しい程の逆光に包まれながらも、そこにいる誰かはこちらに向けて笑みを浮かべている。
 その人物は眼前にいる少女とは間違いなく別人なはずなのに、何故かどことなく面影が似ているようにも感じられた。
「いや……。そうか。そうだったのですね。今になって分かりました。あなたのしたかった事が……。ようやく、僕にも……」
 やがて何かに気付いたようにはっとした表情を浮かべつつ、少年は非常にゆっくりとだが歩き出す。
 向かうのは少女のいる方であり、時折ふらつきながらも確実に距離を縮めていく。
「……それ以上は止めておけ。お前もここで終わりたくないのならな」
 対する少女は背を向けながらもそれを察知しているようだが、特に行動を示す素振りはない。 全身からは力が抜け切り、構えすら取らない隙だらけの状態がずっと続いていた。
「僕は人を傷つけたり、殺めるため……。そのために、あなたに師事してきた訳じゃない」
 一方で少年の動きにも変化はなく、おもむろに握り締めた拳を持ち上げるとじっと見つめていく。
「何故だ……。どうして来る。やめろ……。何をする!」
 自分に刻一刻と近づいてくる異様な雰囲気の相手に対し、少女は困惑したまま後ろへと下がり出す。 実力では圧倒的にこちらが上なのに、どうしてだか怯えるような反応さえ浮かべていた。
「僕がなりたかったのは……。僕が目指したかったのは……」
 やがて目指す相手のすぐ側まで辿り着いた少年は、握り締めていた拳をそっと振り被る。 ただしその手にほとんど力は込められておらず、迫力や殺気などはまるで感じられない。
「先生……。あなたです」
 そして緩慢な動作のまま、はっきりと見切れる程に遅い速度で拳を前方へと突き出していく。
「……!?」
 少女はそれまで少年のあらゆる攻撃を完全に避けていたが、今度は避けようとはしなかった。 ただ自分に向けられるものを瞳に捉えたまま、固まったように立ち尽くしている。
「馬鹿な……。お前は……」
 そして驚きに目を見張ったまま、口や声を震わせながら呟いていった。
 その目の前にはそっと開かれた手があり、少女の方へ静かに差し出されている。
「……」
 そうしているのはもちろん少年であり、落ち着き払ったまま行動を改めようともしていない。 背の高い少女と比べればやや下から伸ばした手は、まるで自然と握手を求めているように見えた。
 その光景は場所や位置こそ違えど、かつて男が少年に向けて手を差し出した時と似通っているようでもある。
「何のつもりだ。ふざけているのか……! どうして、お前もあいつと同じような事を……!」
 だが少女が応じる様子はなく、むしろ激昂した様子で声を張り上げていった。 それもかつての少年とよく似た反応で、体はさらに強張りながら表情もどんどん険しくなっていく。
「……」
 一方で少年はその迫力にも動じず、じっと相手を見つめ続けていた。
 未だ誰にも触れられる事のない手は、なおも何かを待ち続けるように開かれたままでいる。 そこに特定の意思や目的などは感じられず、清々しい程に真っ直ぐな気持ちが込められている事だけが伝わってきた。


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