求めたもの 1



 空には隙間なく暗雲が敷き詰められ、冷え切った辺りには寒々とした風が吹き抜けていく。
 周囲にあるのもくたびれた岩や木ばかりで、廃れた寂しげな雰囲気ばかりが募っている。
 そんな所ではたった二人だけの人物が向かい合い、それからもずっとそうし続けていた。
「先生、何でなんですか」
 その内の一人である少年は難しい顔をしたまま、目の前の人物と会話をする事もなく考え込んでいる。 力の込めた両の拳は固く握り締められ、体の各所も戦うための姿勢を取っていた。
「……」
 一方で相対する少女の表情も険しく、虚ろながら鋭い視線を一向に和らげる様子がない。 その口はきつく閉じられ、風を受け流すような独特の体勢などだけが目の前の相手と異なっていた。
「何、で……」
 それからも少年は一層顔をしかめつつ、眉間には深々としたしわを刻み付けていく。
 その脳裏ではつい数日前の出来事が、風の音に紛れながらまざまざと思い出されつつあった。

「待って! 待ってください……。まだ手合わせは終わっていませんよ、先生!」
 少年は息を切らせながらも懸命に体を動かし、石造りの階段を急いで下りている。
 静かな山中にあって大きな声が反響し続けているが、眼下にいる人物に立ち止まる様子はない。
 わずかに後ろへ振り返る素振りすらなく、当人は今もゆったりと足を動かし続けていた。
「始まってからずっと、あなたの圧倒的な優勢だったじゃないですか。なのにどうして、急に降参なんてするんです!」
 逆に少年はさらに声を張り上げると、前方の人物を糾弾するように睨み付けていく。
 やや日の落ちかけた空の下でも、その表情が強張っているのがはっきりと分かる。
「……」
 すると先を進んでいた男は不意に動きを止め、それ以上は一段たりとも下りなくなってしまった。
「どうして……。どうしてあなたは、いつも最後に逃げ出してしまうんですか。相手に対して失礼とは思わないのですか!」
「何だ、今日は随分と不機嫌じゃないか。腹でも空いているのか? ふふっ」
 続けて憤慨した少年が詰め寄るように追い付くも、振り返った男は穏やかな様子で見上げるばかりでいる。
 体を強張らせる少年とは対照的に、悠然とした立ち姿にはどこまでも余裕が満ち溢れていた。
「いいえ、あなたのせいで不満が溜まっているんです。僕がどれだけ言ってもまともに稽古に出てくれず……。今月だけで何人の門人が去っていったと思うんです」
 一方で少年は半目のままじっと見下ろし、不機嫌な様子を隠す事もない。
「さぁ……。あまり気にした事がないからなぁ。何しろ新しいのが入ってきても、すぐにいなくなるから。顔や名前を覚えている暇もない」
「ふざけているのですか!」
「いやいや……。これは私の性分さ。生まれてからこれまでずっと、こんな感じなんだ。今さら変わりようもない」
「っ……。あなたという人は、もう……! せっかくこの前の暴漢退治のおかげで、人が沢山やって来るようになってきたのに……!」
 対する男がそれからも飄々としていると、少年は顔を真っ赤にしながら激昂していく。 荒い呼吸はまだ収まらず、むしろそれまでより乱れていくかのようだった。
「まぁ、少し落ち着きたまえ。どんなものにも向いていない人間はいる。下手に教えて不幸になる人間を増やすより、きちんと適性を見極めるべきではないか」
 しかし男に動じる様子はなく、剣呑とした態度のまま宥めるように手を動かす。
「はぁ、ふぅ……。ほ、本当ですか? 何だか、もっともらしい事を言っているだけのような……」
「まさか。私はいつだって大真面目さ。ふざけているように見られるのは心外だよ」
「で、では……。改めてお尋ねしますが。どうして先生はいつも、戦いを自分から投げ出してしまわれるのですか? それも勝ち目しかない戦いを」
 すると少年も息を整えつつ、まだ不信感を残しながら男の方へ詰め寄っていく。
「ふぅむ……。いや? 別にそんな事をした覚えはないが?」
「また、そんな事を……。それは、ついさっき! あなたが! やっていたではないですか!」
 それでも男が不思議そうに顔を傾げていると、余程腹に据えかねていたのか少年は派手に地団太を踏んでいった。
「うーん。まぁ、周りから見ればそうなるかもしれんね。私としては逃げたというよりは、止めたというつもりなんだが……。分かってはもらえないか」
 男はそれを見るとおもむろに苦笑し、目を伏せながら横を向く。 その時はそれまでと違い、少し寂しげな雰囲気を漂わせていた。
「先生こそ、僕の苦労を分かってもらえないのでしょうね。今回の手合わせだって相手を探して、こちらに出向いてもらえるまでどれだけ交渉に手間がかかった事か……」
 そうなっても少年は手を握り締め、なおも悔しそうに顔をしかめている。
「今日の手合わせを乗り切れば……。ようやく世間の人達に、先生の強さを知らしめる事もできると思っていたのに……。これでは……」
「本当にどうしたんだい? いつもの君らしくもない。今日はやけに根に持つじゃないか」
「今日だけじゃありませんよ。ずっと思っていました。これまで、ずっと……。先生は本当は誰よりも強いのに……。全力を出せば、どんな相手にも勝てるのに……」
 その様子に気付いた男が改めて見上げると、少年は間近から視線を合わせるように顔を動かしていった。
「どうしていつも途中で諦め、自分から負けを認めてしまうんです。さっきだって急に達観したかのように手を止めず、きちんと相手に止めをさしていれば……」
「ふふっ……。私はね、別に拳法家として有名になりたいんじゃない。ただ、真理を追い求めたいだけなんだ。格闘技術の研鑽も、そのための方法でしかない」
 本気で答えを欲する縋り付くような目付きに対し、男はずっと変わらぬ微笑みを浮かべている。
「……」
 穏やかな声に耳を澄ませていると、少年もこれまでの感情の揺らぎを忘れていくかのようだった。
「だから私は、勝ちや負けにはこだわらないし……。他者と競い合ったり、比べ合うなんて事にも興味なんてないんだ」
 やがて男は静かに目を閉じ、力の抜け切った体で安らかに呼吸を繰り返していく。
「じゃあ、先生は悔しくないんですか。腰抜けや腑抜けだと馬鹿にされ、見下され……。好きなように陰口を叩かれても気にならないのですか」
「あぁ。全く」
 少年はそれを眺めながらもまだ納得できない様子だったが、男は次に目を見開くと迷いなく頷いていった。
「先生は、それでいいとしても……。誰もがそう考え、己の道に邁進している訳ではありません。この世の中には命を賭して、真剣勝負に臨む者だっているんですよ」
 すると少年は仕方ないといった風に溜息をつき、やや体から力を抜いていく。
「今はまだ、単なる手合わせだから問題ないのかもしれませんが……。もし先生より圧倒的に強い相手に出くわし、命の危機に陥ったとしたらどうするのです」
 男よりかなり年下であるにも関わらず、現実をしっかりと見据えた思考はやけに大人びて見えた。
「そうなってもまだ、先生の思うままに振る舞われたとして……。相手は決して、納得などしないでしょう。そうなれば、死んでしまうかもしれませんよ?」
「その時は私が至らなかった。ただ、未熟だった。そう思うだけだよ」
 対照的に男は子供のように澄んだ、純粋な瞳を上向けていく。 自信の込められた声は穏やかながら、どこまでも突き抜けていくような真っ直ぐさがあった。
「先生……。本当に、何を言っているんですか……。僕には、先生の言っている事が分かりません」
 だが少年の方は戸惑いを隠せず、見る見るうちに表情も曇っていく。
「そうだね。私は君や他の大多数の者達と違って、酔狂な考えの持ち主なのかもしれない。でも私は、誰かの体を傷つける技より……」
 すると男はそう言いながら足を動かし、階段を一段ずつ登り始めていった。
 そして少年のすぐ目の前まで辿り着くと、おもむろに握り締めた拳を振り被っていく。
「……!」
 静かながらも言い知れぬ迫力に驚く少年は、とっさに目を閉じると体を大げさにびくつかせていった。
 しかしいくら待っても、体のどこにも痛みや衝撃が届く事はない。
「……?」
 訝しんだ少年がゆっくりと目を開いていくと、そこには予期せぬ光景が広がっていた。
「誰かの心を救う技で、戦いを制してみたい」
 男は少し前と変わらぬ柔らかな顔つきのまま、少年に拳を向けている。 ただし脱力した拳は完全に開かれ、その手の形はまるで握手を求めているかのようだった。
「私はただ強さを信奉するのではなく、それを持って何かを成し遂げたい。今はその形すら見えずとも、いつかはそんな人間になりたいと思っているんだ」
「先生……」
 それからもじっと相手を見続ける男に対し、少年はただ呆けたように立ち尽くしている。
「君にはいつも苦労をかけてすまないと思っている。私のせいで才能のある君がけなされているのだとしたら、私も心苦しい」
 すると男は上げていた手を力なく下ろし、浮かなくなった顔を少しずつ俯かせていく。
「もしも君が私の下を去りたいと思っているのなら止めはしないよ。遠慮する必要もない。私は君の今までの献身に感謝こそすれ、恨みなどはしないからね」
 やや諦めを含んだ視線はやがて、少年の足元へと辿り着いていった。 発する言葉や内心とは裏腹に、わずかに動揺が含まれているのは揺れ動く目で分かる。
「いいえ、僕が先生の元を去る事などあり得ません。僕は先生の一番弟子。いずれあなたを継ぐ者となる予定なんです。見限るなどあり得ません」
 その直後、それまで止まっていた少年の足がにわかに動き出す。 落ち着いた声と共に、階段を下りるように動いた体は男の目の前までやって来た。
「ふふっ、まだそんな事を言ってくれるのか。これまで散々無様な姿を見せてきた先生だというのに」
「はい。僕はあなたの全てを見てきました。その上でなお、僕はあなたのこれからについていきたいと思っているのです」
 両者の顔や体からは緊張や力が抜け切り、口元には微笑みすら浮かべている。
 次に少年は相手の方をじっと見ながら、今度は自分から手を差し出していく。
 西の空には今にも沈みそうな太陽があり、真っ赤で輝くような光を今もこちらに届けていた。
「そうか。ありがとう」
 男はまるで両者の間に横たわるような日の方へ腕を持ち上げ、少年の手をしっかりと握り締める。
「こちらこそ、これからもよろしくお願いします」
 対する少年もこれまでとは打って変わった明るい顔で頷き、それから二人で訳もなく笑い合った。
 豊かな自然の残る山の中を吹き抜けるのは心地いい風ばかりで、彼等を邪魔するものなどそこには存在し得ない。
 今もなお結ばれた両者の手は、決して離れぬ絆を示すかのようにしっかりと結ばれたままだった。


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