道具 4



 だが次の瞬間、どこからともなく小さな足音がしてくるのに気付く。
「……?」
 女が霞む目をそっと向けていくと、そこには一人の少年の姿があった。
「……」
 その少年は利発そうであったが、表情はとても険しく凝り固まっている。 片側の目には眼帯がつけられていたが、反対側の目は今も女をただじっと眺め続けていた。
 そして何を思ったのか、一見すると傷だらけの不審な相手にも躊躇なく近寄っていく。
 すでに両者の間の距離はかなり狭まり、それから少年は眼前にしゃがみ込むと短く話しかけてくる。
 いつからいたのか背後には心配そうに控える老人の姿もあったが、少年が構う様子はない。
 続けてなおも声をかけていくが、女がすぐに答えを返すような事もなかった。
 それは声を出すのも辛いのか、あるいは何から話せばいいのか思案しているのかもしれない。
 とにかくやや荒い呼吸を繰り返したまま、以降も両者はしばらくその場で見つめ合う。
 女が本来の力を発揮できる状態なら、目の前の人間など一笑に付しながら消し炭にする事も可能なはずだった。
 しかし今はその程度の余力もなく、例えどれだけ格の違う存在にでも縋り付く以外に生き延びる道はない。
 やがて女は震える口を懸命に動かすと、静かにゆっくりと言葉を発していく。
 対する少年はわずかに眉の辺りに反応を示すも、あまり表情は変えぬままただじっと聞き入っている。
 そして女が話し終えると少年はその場に立ち上がり、懐から札のようなものを取り出す。
 その札は全体が見慣れぬ文字や紋様で埋め尽くされ、紙の割にはただならぬ気配や圧迫感すら漂わせていた。
 少年はそれを手にしたまま目を瞑ると、精神を集中させながら静かな呟きを宵闇に放つ。
 すると直後には札から眩い程の光が放たれ、いくつにも折れ曲がりながら一気に女の元へと走っていく。
 両者を繋ぐかのような光の勢いはなおも収まらず、女はその奔流に包まれながら徐々に意識を失っていった。
 やがて光が少しずつ勢いを失うと、桜の木にもたれかかるようにして眠りにつく女の姿が目に付く。
 その頭部にはつい先程までなかった狐の耳のようなものが確認できる一方、妖怪としての力はほとんど感じられなくなっていた。
 見た目だけで言えばそれは人間そのもので、誇り高き妖怪としては無様で情けない姿なのかもしれない。
 だがその代わりにかなり深手だった傷は完全になくなり、今はただ色白で美しい肌が月光に艶やかに照らされている。
 いつ死んでもおかしくなかったつい少し前と違い、その様は時を遡ったかと思えるくらい健康な状態を取り戻していた。
 それは本当に見事な結果ではあったが、失ってしまったものも確かに存在する。
 女が失ったのは人や妖怪という以前に、一つの個としてあるためにとても重要なものに他ならなかった。
 実際に女がその事に気付いたのは翌日に目を覚ましてからだが、その時には自分の記憶がほぼ欠落している事に愕然としてしまう。
 果たして自分は何者なのか、家族や友などの知り合いはいるのか。
 どこからどうやって来たのか、どうしてここで働く事になったのか。
 本当に些末な事から重要なものまで、何もかもを忘れ去っていては行動の指針すら定まらない。
 頭の中の大部分には霞や靄がかかったようで、空虚な部分に立ち入ろうとしてもそこには何も見つからなかった。
 しかし記憶がないからこそ、妖怪である女が人間と暮らす事ができていたという面も少なからずある。
 様々な決まり事や慣習は女にとって目新しいものばかりだったが、生来の逞しさや気の強さで何とか乗り切っていく。
 日々の慌ただしい生活の中でいくつも失敗を繰り返しながらも、その度に学びながら同じ過ちは繰り返さない。
 容姿のせいで初めは距離を置かれていた屋敷の者達とも、少しずつでも交流しながら信頼関係を結んでいった。
 若くして当主となった少年は自分にも他者にも厳しく、女に対してはさらに硬化した態度で接してくる。
 そんな少年からはきつい小言や、面倒な命令を受ける事もしばしばあった。
 それでも女は決してめげたり、挫けたりする事はない。 怒りや不満を無理に溜め込まず、理不尽な事には平然と立ち向かっていく。
 時には激しい口論を交わす事もあったが、それでもいつかのように殺されかける事など決してない。
 広々とした屋敷の中で心安らかな人々に囲まれ、平穏無事な時を着実に重ねていった。

 それから少なくない時が経ち、あの時の少年が青年へと変わっても女は屋敷に残り続けていた。
 周りの人間は入れ替わった者も多く、新人には仕事を教えたり色々と助ける場面も多い。
 それでなくとも女は多くの者から頼りにされ、すでに屋敷内の仕事を円滑に回す屋台骨となっている。
 一方で青年は女と出会う前に両親を失っており、今も天涯孤独の身は続いていた。
 いつも側には老人の姿があって生活を支えているようだが、血の繋がった家族や親しい友人の姿は見られない。
 その振る舞いは常に堂々としていたが、ふとした時に荒んだ心が顔を見せる事も少なくなかった。
 例えば侍女の一人が些細なミスをしたとして、そうすると人前であろうと強めの叱責を行ったりもする。
 そういう時は女が仲裁に入って場を収めるが、青年は特に感謝もしなければ褒める訳でもない。
 むしろ余計な事をしてくれたと言わんばかりに雑な対応をすると、周りの目も気にせずにその場を後にしていく。
 おかげで屋敷の者達は表立っては何も言わないが、裏では密かに不満を抱え込んでいるようだった。
 女もそんな現状を変えたいとは思っていたが、そもそも自分の記憶すら未だに定かではない。
 そのために妙案がそう簡単に思い付くはずもなく、仕方なく何となく仕事を続ける日々が続く。
 そこにはっきりとした意識や自覚もないまま、女は人と妖怪の狭間で揺蕩うように過ごしていた。

 海を越えて西洋から様々な知識や技術が流入するようになった時代、この国は内外から大きな変革を迫られていた。
 その途上でいくつもの古きものを捨て去り、代わりに新たなものを取り入れて空いた穴を埋めていく。
 かつて良くも悪くも人々の間に根付いていた妖怪も、今ではその勢力をかなり減らしている。
 特に強大な力を自在に操り、神話の時代から生きていたとされる大妖怪はすでにほとんどが人間によって退治されていた。
 現在も生き残っているとすれば、その大概がろくな力を持たぬ弱小の存在に過ぎない。
「ふんふんふ〜ん。ふんふん、ふふん。ふんふん、ふふ〜ん」
 女も一応は妖怪に属しているはずだが、力に対して何らかの制約でも受けているかのようだった。 そのために姿形はもちろん、内に秘めた脅威などは微塵も感じられない。
 あれから主人に言いつけられた用事をこなし、今は箒を手にせっせと屋敷の庭を掃除している最中だった。
 暖かく晴れた日中はやや暑いくらいで、庭の片隅に目を向ければ美しい桜の花が咲き誇っている。
「へぇ……。すっごい綺麗。本当にここは、あの頃と全然変わってないな……」
 気付けば女の目も自然とそちらへ向かい、意識せぬ内に手も止まっていった。
 さらに目を細めて見上げたまま、桜の木のすぐ側にまで歩み寄っていく。
「ん……。あの頃……? え、それって一体いつの事……。それに、どうして急に思い出したりなんかして……?」
 するとその刹那、不意に頭の中に予期せぬものがよぎっていった。 それはこれまで平凡に人の中で暮らしていた時は、まるで思いもしなかったものである。
 ある時のある場所では何者かと戦い、その相手は血みどろになりながら地に伏していた。
 さらに別の所ではあらゆるものを壊し尽くし、泣き叫ぶ子供の声が耳に突き刺さる。
 それ以外にもいくつもの場面が次から次へと、洪水に押し流されるように脳裏を駆け抜けていく。
「くっ……。うっ、あぁぁああっ……」
 平和な日々とはかけ離れた記憶の断片を突き付けられる度、女はひどく顔をしかめていった。
 丁度その頃、庭には強い一陣の風が吹き付けてくる。
「ぅ……。いたた……。あいたたたっ……」
 おかげで辺りには派手に土埃が舞い、それらは女の目に入ってしまったらしい。
 痛む目を思わず手で擦っていくと、同時に一筋の涙がこぼれ落ちていく。
「……!」
 すると次の瞬間、女の体には一際強い電流のようなものが走る感覚があった。
「あ……。は、は……。わた……。私……? いや……。これ……? 我、は……?」
 風に巻き上げられたほんの小さな異物が出発点ではあったが、それによってもたらされた今までにない変化は想像以上のものだったらしい。
「は、はは……。はははっ……。あは、はははははっ……!」
 女は自らの体を抱え込むように身を丸めると、ひどく感情のこもった笑い声を発し続けている。 その横顔や口元は確かに緩んではいたが、目からは今も涙が溢れて止まらないようだった。

 かつてこの地には神の血を引くと言われた、真に偉大な一族がいた。
 彼等は多くの同胞と共に遥かな太古から、広大な地域を統括する支配者として君臨している。
 だが動き続ける時代は決して止まる事なく、周りの状況も否応なしに変わっていく。
 周囲の勢力は刻一刻と移り変わり、一族の者達も様々な理由によってその数を徐々に減らしつつあった。
 ある者は敵対する人や妖怪との争いで命を落とし、ある者は自らの寿命や病を受け入れて亡くなっていく。
 すでに減少と衰退の流れは、一個人の意思や思惑でどうにかなる規模を超えている。
 もう滅びの時は避けられないと思われていたが、それでもまだ生きる事を諦めない者もいた。
 彼等は時代と共に生きる場所を移り、その度に自分自身の姿さえも変えていく。
 土地ごとの風土や文化に合わせ、そこに住まう人の中に溶け込む努力も欠かさない。
 それはかつて一族の者がしていたような、誇り高い振る舞いとはかけ離れている。
 むしろそれは忌み嫌っていた人間の所作そのものであったが、すでに選り好んでいる余裕などなくなっていた。
 そうして彼等は柔軟に生き方を変えていこうとしたが、どこに行こうと最終的には同じ結果となる。
 そこに至るまでの原因や過程は様々だが、結局は人から抱かれる印象は普遍的なものだった。
 誰もが妖怪の異様な姿や強大な力に怯え、遂には彼等を憎んだり蔑むようになる。
 人々はかつて尊敬と畏怖の対象としていた者達を、今では忌み嫌うようにさえなっていた。
 そんな一族の者達はある時は龍と呼ばれ、またある場所では鬼と名付けられる。
 また別の地方では化物とだけ言われ、ごく最近では九尾の狐と謳われる者もいた。
 しかしいつだろうと、どこだろうと人と妖怪が融和する事は決してない。
 戦火の少ない時代でも小競り合いは常に欠かさず、悲惨な光景もそう珍しいものではないのが実情だった。


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