道具 5



 そこは様々なものが赤々と燃え上がり、どこを見回しても死と破壊で満たされた世界だった。
 築いてきたものを失う側からすればそれは悪夢でしかないが、単純に景色だけを見れば違ってくる。
 全体が夕陽の輝きの中に浸されたような赤の世界は、恐ろしくもありながら同時に美しい。
 退廃的な雰囲気は町の一角だけに留まらず、どこまで行っても延々と続いている。
「あぁ……。何て、愚かな者達。こんなに弱いのだから自分達の巣穴にだけこもっていればいいものを。わざわざ虎の尾を踏みに来るとは……。あぁ、何て愚かな者達」
 女はそこを散歩でもするかのように平然と進み、今も阿鼻叫喚の騒ぎが続く周囲を悠々と見回していた。 その表情には憂いや悲しみといった感情はなく、むしろ楽しむように微笑んですらいる。
 町を襲う妖怪達にとってもそれは至福の一時であるかのように、狂乱の宴はなかなか終わる様子を見せない。
 これだけの規模の争いは珍しいが、人と妖怪の長きに渡る戦いの中ではほんのごく一部に過ぎなかった。
 今も各地ではありとあらゆる形で、何らかの諍いが盛んに繰り広げられている。
 果たしていつから両者の関係がこのようになったのか、それを知る者もとっくの昔にいなくなっていた。
 だが今さらそのような事を気にする者もおらず、ただ暴力や怨嗟ばかりが鎖のように延々と繋がっていく。
 それからも各地を転々としていった女は、やがてこの国でも一番大きな都に辿り着いた。
 人や物が無数にあるそこには溢れんばかりの活気があり、誰もが日々を精一杯に生きようとしている。
 女はそこで人の中に混じって暮らし続けてはみたが、やはり最後には避けられない戦いが待っていた。
 これまでの怒りや鬱憤が溜まっているのか、あるいは他の妖怪の分まで恨みに思われているのかもしれない。
 それくらい人の攻撃は苛烈で容赦がなく、女はひどい手傷を負うとやむなくその場から逃げ出す。
 そして町中を放浪した果てに、何かに惹かれるようにしてある屋敷へと入り込む。
 そこにあったのはむせ返るような桜の匂いと、月光に照らされながらの特別な邂逅だった。

「あぁ……。そうだ。どうして今まで、忘れていたんだろう……」
 呟く女はまるで憑き物が落ちたかのようで、さっぱりとした顔をして立ち上がる。
「私は人じゃない。妖怪なんだ……。他の生き物より、人なんかよりもっと格の高い強者……。それがこんな場所で、あんな奴等に使われていたなんて……」
 今もまだ手で目元を拭っているが、すでに涙など滲みもしない。 逆にその口元には、隠し切れない笑みがずっと浮かんでいた。
「あははっ、はっはっはっは……。おっかしい……。あっはっはっはっ。あーっはっはっはっは!」
 やがて憚りのない笑い声を響かせると、どこかへ向けて悠々と歩き出す。 まるで気が触れたかのような振る舞いではあるが、本人は一向に気にする様子はない。
 かつての記憶や自覚を取り戻し、女はこれまでの仮初めの姿を捨て去ろうとしている。
 その激変ともいえる入れ替わりを示すように、すでに目にはどこか狂気めいたものが宿っていた。

 そして妖怪はその日以降、あらゆる面において大きな変貌を遂げていく。
 面倒見の良かった性格は冷徹なものになり、取る行動もその全てが真逆へと変わっていった。
 ころころとよく変わっていた表情は険しいものへと固定され、その目は何もかもに敵意を向けるのを欠かさない。
 相手からの印象や反応を気に留める様子もなく、ひたすら自分の事だけを優先するようになっていた。
 さらに活発だった時とは異なり、口数も明らかに少なくなっている。 口調から言葉遣いまでもが別人のようで、棘のある発言に相手への思いやりなど窺えない。
 そこには隠し切れない人間に対する憎悪だけがあり、接する者をことごとく困惑させていく。
 頭部にあったはずの狐の耳らしきものもいつの間にか消え去り、それだけでもつい数日前までとはまるで異なる印象を受けた。
 見た目だけで言えば完全に人そのものなのだが、その雰囲気は明らかに普通の人間からかけ離れている。
 それでも妖怪はむしろその姿などを周囲へ誇らしげに、まざまざと見せつけるかのように堂々としていた。
 すでにそこには自分の存在について苦悩し、どうすればいいのかずっと憂いていた以前までの姿はない。
 日を追う事に周囲への態度はさらにきつくなり、例え涙ながらに心配されようと徹底した無関心を貫き続けていた。
 そしてこれまでは主人に何か言いつけられれば、嫌々ながらも仕事をこなしていたが今は違う。
 能面のように張り付いた顔で淡々と拒絶すると、すぐにどこかへ向けて歩き出す。
 さすがにここまでになると、屋敷の中を様々な噂や流言が飛び交うようになっていた。
 特に口の軽い下働きの者達は盛んに憶測を重ね、毎日のように顔を突き合わせて話している。
 外見や内面の変化はもちろんだが、どうして妖怪は不機嫌そうにしながらもここに居座っているのか。
 主人がそんな妖怪を放ったままでいるのも不明だし、そもそも二人の関係からして他人には分からない事ばかりである。
 もしかしたら主人の仕事が関わっているとか、あれは最初から人ではないのではないかという声すら出始めた。
 しかしあくまで真相を確かめる勇気は誰にもなく、遠目や物陰から女を監視するように覗くのが精々となっている。
 主人に古くから仕える老人にも目立つ動きはなく、屋敷の中にはどんよりとした重い空気ばかりが溜まっていた。

「……」
 一方で妖怪はどこからともなく聞こえる小声や、複数の方向から感じる視線にもたじろぐ様すら見せない。
 今日も人気のない庭の片隅にやって来ると、そこで日がな空ばかり眺めている。
 最近は主人と顔を合わせるのも避けるようにして、桜の木の下に居座るのが日課のようになっていた。
「……」
 そこで特に何をする訳でもなく、妖怪はただじっと木に身を預けたまま動かない。
 そうしている自身は穏やかに時を過ごしているだけかもしれないが、屋敷の者達からすれば違う。
 特に現在の妖怪の振る舞いを鑑みれば、不気味や不穏といったあまり好ましくない対象としかならなかった。
「……」
 だがそれでも妖怪は気にする様子もなく、ふと思い出したように顔を上向けていく。
 虚ろな目には青空をゆったりと流れる雲が映り、それはどこからどこまでも延々と続いていた。
 それからも空を眺める妖怪は一言も発する事なく、気持ちを押し隠したような表情もずっと微動だにしない。
 もちろんその胸中に何が去来しているのかなど、当人以外の誰にも推し量る事はできなかった。

 それからも妖怪はただあるがままに過ごし、周囲の人間に不機嫌さや怒りをぶつけていく。
 しかしそんな理不尽な日々も、ある日唐突に終わりを告げる。
 妖怪は何を思い立ったのか、何の予兆もなしに屋敷の奥へと立ち入っていった。
 その先にあるのは主人の居室であり、屋敷の者がいくら止めても構わずに邁進していく。
 やがて乱暴な足音が不意に立ち止まると、そこはすでに主人の部屋の前だった。
 もう誰もが距離を取ったまま様子を窺うしかなく、それからすぐに妖怪は室内へと足を踏み入れていった。
 続けて何をするのかと思えば、そこにいた主人に対していきなり文句を並べ始める。
 それは今までに感じていた不満がほとんどであったが、辛辣な物言いや遠慮のなさはこれまでの比ではない。
 主人からすればそれはまさに青天の霹靂だが、特に狼狽える素振りも見せなかった。
 口も挟まずに相手の言い分をじっと聞き、今もただ冷静に見つめ返すだけでいる。
「……!」
 だが妖怪は逆にその様が癪に障るのか、きつく睨み付けると大きく息を吸い込む。
 そしてより本気の思いの丈をぶつけるように、一方的に契約の破棄を申し出てきた。
 契約というのも単に主従の間のものでなく、恐らくはあの月夜の晩に交わしたものに違いない。
 それから妖怪は相手の応答を待つが、主人はなかなか口を開こうとしなかった。
 机を挟む互いの顔はどちらも真剣で、そのまま長い時が経ったかのような感覚にすら襲われる。
「私はお前の僕……。いえ、道具などではない。人間ごとき、矮小な存在に好きに使われるいわれはないのだ。さぁ、私との契約の破棄を認めるがいい!」
 しかしどれだけ待っても話は進まず、妖怪の方が痺れを切らしたかのように声を上げていった。 苛立ちを含んだ視線は正面へ向けられ、握り締めた手で強く机も叩いていく。
「……」
 それでも主人は大した反応を見せず、今も静かに構えている。
 どれだけ睨まれようと相手をじっと見つめ返し、一方で妖怪の方も引き下がらない。
 今も衰えぬ勢いで前のめりになったまま、鼻息を荒くし続けていた。
 部屋の入り口の方には老人や屋敷の者達があり、廊下からそっと様子を窺っている。
 その誰もが室内の両者を交互に見比べ、どうしたものかとはらはらしているようだった。
「そうか。お前がそう望むのか。ならば勝手にしろと言いたい所だが、俺の立場上……。お前のような存在が野に放たれるのを、ただ見逃す訳にもいかないのでな」
 やがてその場の注目を一身に集める主人は、短く息を吐いた後にゆっくりと語り出す。
「ここから出ていくのなら俺と戦い、勝つがいい。そうすればお前は、本当に自由になれる。どこに行こうと、何をしようと好きにするがいい」
 その目付きはもちろん、体からは気が抜けたように緊張感がなくなっている。 まるで何もかもが終わったように一切の執着はなく、立ち上がる動きにも躊躇いはまるで感じられなかった。
「は……? この期に及んで何を偉そうに……。脆弱な人間が私と戦うだと? 散々待たせたと思えば、何を馬鹿な事を。ふっ……。ふはははっはっ……」
 対する妖怪は初めこそ呆気に取られていたものの、すぐに鼻で笑うとそれからも笑みを絶やさない。 口元を手で隠しながらも、その声や表情はいつになく楽しげで上機嫌なものとなっていた。
「ふっ、脆弱な人間か。確かにお前から見ればそうだろうが、これまでその人間にどれだけ助けられてきたと思っている。記憶が戻っても、今度はそれを忘れてしまったか?」
 主人はそんな相手へ近づくと、見下ろすような体勢で語り掛ける。
「だとしたら随分と都合の良い頭をしているものだ。そこらの野良犬や野良猫ですら、餌をやれば恩を感じる気持ちもあるだろうに」
 その表情や態度はあくまで落ち着き払い、余分な感情や思惑などは感じられない。 部屋の窓から差し込む光を横から浴び、達観したような姿はあらゆる制約から解き放たれているかのようだった。
「お前……」
 妖怪はそれを見上げながら自然と笑みを消し、表情を険しくしながら目を細める。
 いつの間にか部屋の中には殺気すら満ちるようになり、やけに鋭さを増した空気は何者をも拒んで弾き出そうとしているかのようだった。


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