道具 3



「はぁ……。まぁ、その話はまた後でもいいだろう。それより行くのか、行かないのか?」
「え? 何です?」
「何って、さっき言っただろ。買物だ」
 そして主人がやや呆れたように声をかけると、そらはようやく我に返ったように反応する。
「あ、はい……。確か、夕飯の買い出しでしたよね。いいですよ。行かせて頂きます。それで、他に何かする事はありますか? あるなら今の内に仰っておいてください」
 それからは段々と意気を取り戻すと立ち上がり、部屋の入口の方へと踵を返していく。 声や言葉は刺々しくなり、足音もわざとかと思う程にどすどすと響いていた。
 ただしその勢いのままに部屋を出ていくのかと思われたが、ふとその直前で足を止めてしまう。
「どんな事だろうと、必ずやり遂げてみせますとも……。何せ私はあなたの、道具なんですから」
 完全に背を向けた状態で呟く言葉は本当に小さく、その後ろ姿もどことなく弱々しい。
 その口から漏れた落胆したような声も、室内に反響する事なく密やかに消えていった。
 そらはそれから相手に聞こえたかの確認もせず、あっさりと部屋を後にしてしまう。
 静かに閉められる襖の音も、遠ざかる足音などもいつもよりなりを潜めているのがはっきりと分かった。
「はぁ……。あいつは本当にいつも一人で悩んで、勝手に思い詰めて……。いちいち引っ掻き回される、こっちの都合も考えてほしいものだ」
 主人はそれから今日何度目になるか分からない溜息をつくと、ぎゅっと強めに目を閉じていく。 そらの最後の呟きが耳に届いたかは不明だが、とにかく今は何も考えたくないかのようだった。
 やがて室内から一切の音がしなくなっていくと、他に何の気配も感じられない程の静寂が訪れる。
「仰る通りですな」
 しかしほとんど間を置かず、どこからともなく渋い声がしてきた。
「い、いたのか。全く……。お前もお前で、好き勝手に出たり消えたりするな。心臓に悪いから、そういうのは止めろと言っただろうが」
 主人が思わずそちらへ目を向けると、いつの間にか部屋の隅に佇む一人の男が目に付く。
「ありがとうございます」
 そこにいたのは穏やかな笑みを浮かべる老人であり、軽く一礼するとゆっくりと近づいてきた。
「褒めてないんだがな……」
「左様ですか。まぁ、それはひとまず置いておくとして。彼女の事なのですが、あれでよろしいのですか?」
 対する主人が冷めた視線を送ろうと、老人の方には目立った変化はない。 年齢を重ねた態度は余裕に満ち、どこか飄々として掴み所のない雰囲気も感じられた。
「あれとは?」
「彼女の扱いについてです。決して名を呼ばず、評価もせず。あらゆる不服も許さず……。あのままではいずれ、何かしらが破綻するのは目に見えていると思いますが」
「かもしれんな……。だが、俺にどうしろと言うのだ。あいつの問題は、あくまであいつの問題。まさか優しい言葉の一つもかけてやれとでも言うのか?」
 主人は眼前の相手をじろりと睨むように見つめていくが、当人は顎に蓄えた立派な髭をずっと擦っている。
「いえ、そういう訳では。ただ……。悩みの一つを解決する方法をあなたはお持ちのはずです。本当の事を……。彼女にお告げになれば、よろしいのでは?」
 常に柔らかな表情を浮かべ、本心を隠したような独特な調子にはむしろ清々しさすら覚える程だった。
「何だ。あいつの事を随分と心配しているようだな」
「一応、同じ屋敷で働く者同士ですので。何もおかしい事はないでしょう?」
 だからなのか主人も茶化すように呟くと、どちらとなくわずかな笑みを浮かべていく。
 老人が持つ長い経験の賜物なのか、場の空気もそれまでより幾らか軽くなったように感じられた。
「そうだな。普通ならそう思うのだろうな……。だが俺が、あいつと交わした契約。その条件は俺があいつを、あくまで道具として扱うというもの」
 それでも主人の表情はまたすぐに険しさを増すと、少しずつ顔を上向かせる。 天井に話しかけるような声には張りがなく、細まった目もいつになく虚ろな印象があった。
「何しろ元の格が違い過ぎたからな。干渉するためには、どうしても釣り合いを取る必要があった。対象の存在自体を低位にまで貶め、その状態をずっと維持し続ける」
 浮かない様子はそらと相対していた時とは別人のようで、言いようのない虚ろさや不安定さがある。
「その代償として力や記憶を失う事にはなるが……。そうしなければ、あいつは……。だから事情を話して、どうにかするという訳にもいかないんだ」
「そうですか。ですが、そもそもどうしてそのような契約を……? やはり……。まだ、あの方の事が忘れられませんか」
「忘れられない、か。そうだな。恐らく、これからも一生そうだ。あいつは……。三雲は俺なんかを庇ったせいで、あんな風に……。無残に、血塗れで死んでいったんだから」
「……」
 老人はその様をじっと見つめ、それでも必要以上に口を挟まない。
「だが、確かにそうだな……。そういえばもう、あれから結構な時が経った。もしかしたら、変わらねばならぬ時……。それが、すぐそこまで来ているのかもしれんな」
「当主様がご決断された事なら、例えそれが何であろうと。私が口を挟むべき言われはありません。どうぞ、お心の赴くままに……」
 やがて言葉を聞き終えると変わらぬ微笑みを浮かべ、恭しく礼をすると静かに黙り込む。
 ただそれだけで老人の存在感は一気に薄くなり、目の前にいるはずなのに姿が掻き消えてしまったかのようだった。
「……」
 主人もその後を追う事をせず、不意に立ち上がると窓際に向かって歩き出す。
 窓を介して伝わる光は眩しい以上に暖かく、そこから見渡す限りが輝かしく照らされている。
 それは少し薄暗い屋敷の中とは対照的なくらいで、庭にはそこかしこに様々な種類の花や植物が植えられていた。
 丁寧に剪定されたそれらは見るからに華やかな景色を作り出し、日が昇るにつれて周囲の気温もぐんぐんと上がっている。
「気付けば、随分と暖かくなっていたんだな。そうか、もう春というより夏に近い季節だったか……。そういえば、あいつと出会ったのも確か……」
 そこにあるのは些細だが確かな季節の移り変わりであり、主人はそれを眺めながらどこか遠い目をし続けていた。

 数年前にここからそう遠くない地において、人間達による大規模な妖怪討伐が行われた。
 その時に標的となったのはたった一体の妖怪であり、そのためだけに数百もの人が動員される。
 集められたのも見るからに屈強な兵士であったり、妖怪に対する様々な知識や技を持つ実に多彩な者達だった。
 その標的とされたのは無数の人に仇をなし、国すら食い潰すとまで謳われた伝説の大妖怪である。
 まず探索と調査によって大妖怪の居所を探り当てると、いくつもの策や謀略を用いてその者を別の場所へと巧みに誘導していった。
 それは郊外にある遮るもののない草原で、そこで二つの勢力は激しくぶつかり合う。
 その片側は人間の女によく似た存在で、戦いが始まる前から何度も何かを訴えかけていたが相手は取り合わない。
 女を囲むように数え切れないくらいの人の群れが集い、円を描くように立てられた篝火のおかげで深夜でも昼のように明るくなっていた。
 そこに集う者は皮や鉄の装備で厳重に身を固め、あるいは怪しげな術や道具を用いながらじりじりと女を追い詰めていく。
 初めは戦う気を見せなかった女も言葉が通じないと分かると、自衛のために自らの力を振るい出す。
 それは本当に人間とは桁外れの力で、いくら数の多さで攻めようと一向に戦局は有利に運ばない。
 戦いが始まる前はいくらでもいた人の数はあっという間に減らされ、多くの犠牲を出しながらなお戦いは熾烈を極めていく。
 それでもどれだけ力があろうと、やはり生き物である以上は女にも限界があったらしい。
 疲労や決して浅くない怪我により、体のぐらついた隙を突かれて致命的な一撃を食らってしまう。
 そして一度不利になると一気に押し切られる事となり、最終的に勝利を掴んだのは人間達の方となった。
 だが勝鬨や喝采も束の間、その後に行われた捜索では女の亡骸の一部すら見つからない。
 戦いの終盤に起きた激しい爆発によって地形すら変わり、辺りでは今も煙や粉塵が大量に立ち込めている。
 そのせいで人間側の無事を確かめる事すら難しく、現場は未だに混迷を極めていた。
 しかし帝への報告のためには、せめて腕や足の一本でも見つけなければならない。
 これだけの人数を動員し、かなりの被害も出している以上は手ぶらではとても都には帰れなかった。
 それでもただでさえ死傷者の収容や治療があるせいで、状況は遅々として進展しない。
 難航する捜索は以降も続き、その場には焦りや不安ばかり蔓延していく。
 だとしても女の姿は最初からなかったかのように掻き消えたまま、衣服の一欠けらすら見つからないままとなっていた。

「はぁ、はぁ……。はぁ……。ふぅ……」
 それからそう時を置かない頃、都の夜道を彷徨う怪しい人影があった。
 歩く事すら難しそうな重傷を負った女は、今も体から血を流しながら足を引きずるようにして歩いている。
 その動きはかなり鈍いが、目は常に周囲へ忙しなく向けられていた。
「くっ……。せめて、体を休められる場所さえあれば……」
 どうやら人の目や民家の明かりを注意深く避けているようで、なるべく物陰に隠れながらの移動は続く。
 そしてそうしている内に路地をいくつも通り抜けると、やがて大きな屋敷が目に入ってくる。
「……」
 初めはそこを警戒するように眺めていた女だったが、あまり人の気配や眩い明かりなども感じられない。
「これは、賭けか……。でもこうなっては、こうするしか……」
 やがて女は意を決したように念じると、不思議とその体は淡い光を帯びていく。
 すると直後には女の体はふわりと浮かび上がり、屋敷の塀を超えながら軽々と内部へ入り込んでいった。

 まずそこで目にしたのは、庭で華麗に咲き誇る何本もの桜の大木だった。
 それらからは美しい桃色の花びらが無数に放たれ、月光を浴びながら幻想的な光景を見せつけている。
「……」
 女は視界中を舞い散るそれらに目を奪われ、自身の怪我も忘れたように歩き出す。
 息を呑みながら目はずっと上向いているが、意識は段々と朦朧としてきたらしい。
「うっ……。くぁっ……」
 自分の意思とは別に膝が地につくと、そこで伏したまま動けなくなってしまう。
 気付けばそこは桜の大木の根元であったが、今も絶え間なく流れる血が辺りに染み出している。
「うっ、はぁ……。あっ……。ぐぅ……」
 荒い呼吸も片時も収まらず、すでに桜の方へ目を向ける余裕もない。
 淡い月明かりに照らされ、植物や池などあらゆるものが穏やかに在り続ける世界。
 まるでこの世のものとは思えない美しさで満たされてはいたが、そこでは今にも儚い命の灯火が消え去ろうとしていた。


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