道具 2



「自分が一体、どこの誰なのか。家族や友達がいるのかすら、まるで覚えてないんだもんね……。普段は気にしないようにしてたけど……」
 だがそれでも思い直したように動き出すと、ふと廊下の窓から外を見下ろしていく。
 眼下では庭の掃き掃除をしたり、洗濯物を干すのに勤しんでいる侍従が何人も目に付いた。
「やっぱり私自身、納得がいっていないのかな。だからこそ今日だって、あんな……。今から思えば、みっともないくらいに御主人にきつく当たって……」
 そらが何となくその光景を眺めていると、当人達はその視線に気付いたらしい。
 離れていても分かる程にはしゃいだり、こちらに大きく手を振る者さえ見て取れた。
「やっぱり、一度ちゃんと御主人に聞いてみた方がいいのかなぁ。でもそれで、もし……。今の生活が、がらりと変わってしまうようなら……。それはそれで、嫌なのよね」
 そらはそんな彼女達に対して力なく微笑むと、控え目に手を振ってからその場を後にするように歩き出す。
「たまに言われる無茶な命令以外は、そこまで悪い暮らしでもないし……。はぁ……。色々と、難しいなぁ。人と一緒に、暮らすっていうのは」
 静寂に包まれた廊下はそらの呟き以外には、小さな足音や微かな呼吸音くらいしか聞こえてはこない。
 だからこそ誰の憚りもなく、そらは己を見つめ直すように独り言を繰り返していた。 そしてその成果はあったのか、先程より目は明らかに前を向くようになっている。
 体や手足にも活力が戻り、もう壁にもたれかかるような事もなくなっていた。
 それでもまだ浮かない顔つきをしているのを見ると、まだ迷いや悩みといったものを確かに抱えているのが分かる。
 そのせいでしっかりとした足取りとは裏腹に、秘めた心境はとてもではないが真っ直ぐさを保っているとは言い難かった。

「何だ。その顔は?」
「いーえ。別に」
 それから幾日か経った後、そらは主人に呼ばれて部屋を訪れていた。 ただしかなりのしかめっ面をしたまま、そっぽを向くように顔を背けてしまっている。
 主人がいくら鋭い眼光を向けようと、そらは黙りこくったままの室内には重苦しい空気が流れるばかりとなっていた。
「はぁ……。まだこの前の事を怒っているのか? 全く、執念深い奴だな……」
 やがて根負けしたかのように、主人は手にしていた書類を雑に投げ出していく。
「あの、御主人。私は……。私は一体、何なのですか?」
 それからようやくそらは顔を正面に向け、固く閉ざされていた口を開いていった。 しかしいつものはきはきとした印象はなく、声も絞り出すような小ささをしている。
「ん? 何だと? その質問では何が聞きたいのかよく分からんぞ」
 すると主人も訝しげに目を細め、普段とは少し雰囲気の異なる相手をじっと眺めていった。
「私は、あなたにとって……。ただ雑事をこなすためだけの存在で……。代えようと思えば、他にいくらでも代わりはある……。そんな、ただの道具なんですか……?」
「ん……? 何と言ったのだ? もっと大きな声で言え、全然聞こえんぞ」
 そらはそれからも目も合わせず俯いたまま、主人はあからさまに顔をしかめていく。
「あ、いえ……。やはり、いいです。実はもう一つ、別の質問があります。あの……。私は一体、何なのですか?」
 するとそらは問いかけを諦めたのか、気持ちを切り替えるように首を左右に振っていった。 そして顔を上げて改めて正面に向き直ると、真剣な眼差しで相手を見つめていく。
「むぅ……。どうも、先程からずっと要領を得んな。ちゃんと答えてほしいのなら、せめて質問の意図をはっきりさせろ。ふざけているのか?」
「そうですか。でしたらっ……。私は人なのか、それを教えてください。もしそうでないなら私は、何のですか。人以外の、まるで別な何かなのですか」
 だが気持ちがうまく伝わらず、空回りばかりしているせいか焦りばかりが浮かんでしまう。
「過去の記憶が一切ない私には、そんな簡単な事すら分からないのです。知っている事があるのなら、どんな事でもいいから教えてください。お願いします……」
 その歯痒さを表すかのように身も前に乗り出し、懇願するかのように問い詰めていく。 歪めた表情などにはいつもの生意気さや、強気な姿などは一切感じられなくなっていた。
「お前、それは……」
 主人はその事に気付いているからこそ、かなり驚いた様子で絶句している。
「いえ、何となくは分かっているんです。自分が人ではないと……。ですが、私は知りたいのです。自分が果たして何なのか、過去に何があったかをはっきりさせたい……」
 逆にそらは相手の反応には思い至らず、辛そうな顔をして胸の辺りに手を置いていた。 わずかに震える目は潤んですらおり、確かな懸命さが如実に表れている。
「ですから、何でもいいんです。とにかく、知っている事があれば仰ってください。私は……。一体、何者なのですか?」
「それは……」
「それは?」
 その訴えかけに心動かされたのか、主人は逡巡しながらも声を発していく。 ただし目は左右に大きく揺れ動き、忙しなく動く体の各所からは隠し切れない動揺が感じ取れた。
「知らん」
 そして幾らかの間を置いた後、今度は主人が声を絞り出すようにして短い言葉を発する。
 それは静まり返った室内にとてもよく響いたが、だからこそ無常さをより際立たせているようでもあった。
「え……。知らんって、そんな……」
 対するそらは明らかにショックを受け、思わず眩暈を感じたかのように頭をふらつかせている。
「そんなも何もない。お前を雇い入れた時、純粋な人かどうかなんていちいち調べたりはしなかった。妖怪や悪霊の類ならともかく、そうも見えなかったからな」
 主人はそれから段々と冷静さを取り戻すと、机の上に散らばった書類を几帳面に揃えていく。
「強い悪意や他者に対する害意がある訳でもなく……。仕事自体は普通にこなせるようだったからな。はっきり言って他はどうでも良かった」
 瞬きの間に細めた目はどこかに向けられているようで、だが実際にはどこにも向けられてはいないかのようだった。
「なっ……。そんな……。そんな、いい加減な答えでは答えになっていません! で、ではこの身を見て下さい。姿形は人に似ていても……。この耳はどうでしょう」
 一方で納得のいかない様子のそらは、憤りと共に勢いを取り戻すと自身の体を指し示していく。
「町中に出れば、これが嫌でも目立つんです。二度見や、下手したら三度見だってされちゃうんですよ! 私はその度に周りの人から、好奇の目を向けられるんです」
 頭部には当然のように人とのものとは違う部位が存在し、それは見紛う事なき本物のようだった。
 その耳には作り物では到底再現し切れぬ、滑らかな手触りやしっとりとした暖かさもある。
「奇怪な耳を生やした、あるいはそのように仮装した女として……。好きでこうしている訳でもないのに……。この気持ちが、あなたに分かりますか?」
 そらは今もそれ触れつつ、浮かぬ顔つきや眼差しを伴いながら訴えかけていく。
「本当に、私は何なのですか。どうして多くの記憶が失われているんです? あなたなら、何か知っているのではないですか?」
「知っている、か……。まぁ、あくまで一般的な常識くらいはな。お前は自分が人であるかどうか、いまいち確信がないようだが……。それに何の問題がある?」
 しかしどのように言われようと、主人にはあくまで響いていない。
「この世には妖怪も悪霊も、確かに実在している。不可思議な事象や物事だって、物語の中にだけあるものじゃない。人であろうと、異能の力を持つ者もそう珍しくない」
 落ち着き払った素振りからは特に何かを意識する事もなく、もう微かな感情の揺れ動きすら見せなくなっていた。
「中にはお前のように、普通の人間とは異なる体を持つ者だっているだろう。お前も町中を歩く機会があるなら、そのような噂や実物を見聞きした事があるのではないのか」
「それは……。で、でも……。だからと言って、それで私が普通でない事の説明にはなっていません。それに……。私の、記憶がない事は……!」
 さらにややきつい言い方をすると、そらは萎縮したように身を縮ませる。 それでも言い足りぬ事があるかのように、目を逸らす事だけはしなかった。
「はぁ……。まだ言うか。お前がどう思おうと、今述べた事が全てだ。これ以上、俺に突っ掛かってきても無駄だ。第一、それが俺に何の関係がある?」
「うっ……」
「俺はお前が何であろうと、仕事をする内は問題視しない。お前が自分を模索するのは勝手だが、俺を巻き込むな。あくまでそうしたいのなら、ここを出てから好きにやれ」
 対する主人はそれを受けてなお、はっきりと肩を落とすように溜息をつく。
「分かるか? お前にとって、俺がこうだと言えばそれが真実。白も黒へと変貌する。そこに疑問や余地を挟む必要はない。ただ受け入れ、咀嚼せずに納得していればいいんだ」
 そしてこれまでになく厳しい視線と、険しい顔つきを正面へと向けていった。
「……はい」
 そらもまだ何か言いたげではあったが、ようやく口をきつく噛むようにつぐんでいく。 だが俯かせた顔はとても暗く、ひどく落ち込んでいるのがよく分かった。
「よし。なら、この話はもう終わりだ。それとその耳だが、いつもは頭巾で隠しているのだろう。なら、それで充分ではないか。それともまだ、他人の目が気になるのか?」
 主人もようやく気を取り直すと、人差し指を立ててそらの頭の方へ向けていく。
「それはまさか自分がよく人目を惹くという、自慢なのか? 自分はとてつもない美人だからと、そう暗にひけらかしたいのか?」
 さらに人差し指をそのままなぞるように上から下げていくと、そらの全身を眺めながら鼻で笑う。
「む、むむっ……。違いますっ。いつも頭巾を被っていたら、それはそれで変な目で見られたりするのです! 子供達があだ名をつけて笑ったり、妙な噂すら立てられ……」
 それはあからさまに挑発するような態度であったが、そらは瞬時に沸騰するように怒りを露わにしていった。
「御主人だったら、そういうのを気にしないのかもしれませんが……。私にとっては大、問題なのです! えぇ、本当に!」
 その様はこれまでに溜まった鬱憤を一気に発散するようでもあり、机を手でバンバンと叩いていく。
「ふむ……。では、一体どうしろと言うのだ? 何かいい策でもあるのか?」
 対する主人は面倒そうな反応を隠そうともせず、飽きたように耳の辺りを掻いていた。
「そ、それは……。うーん……。そうですねぇ……」
 そらも改めて考えると答えに窮し、腕を組むと唸り出す。
 つい少し前までは抱え切れぬ程の悩みを持ち合わせていたはずだが、すでにどこかに消え失せてしまったらしい。 簡単に話を逸らされている事にも気付かず、なおもそらはじっと考え込んだままとなっていた。


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