谷 3



「そうしたいのは山々じゃが、わしは自分にできる事しかしない主義でな。自分の手に余る、無理な事はしない。こんな世の中で生き抜くための、ささやかな知恵じゃよ」
 対する老人は少年の体を支えると、傷の具合を確かめるように眺めていく。
 それから懐から塗り薬のようなものを取り出すと、改めて手当てを始めていった。 その間の表情や態度はとても温和であり、これまでに見てきたどの人間よりも余裕に満ちている。
 少年にとってはそれがかなり新鮮に映ったのか、こんな場所ながら老人と話し込んでいく。
 地べたに座り込んで面と向かい合った両者が話す様は、まるで昔からの知り合いが親しく言葉を交わしているかのようだった。
 いつになく生き生きとして少年はこれまでの不満や疑問を口にし、老人はそれら一つずつに真摯に答えていく。
 やがて話の流れの中で、老人はかつてあった世界の有様を懐かしむように呟いていった。

「それまで世界には、いくつもの火が灯されていた。神の名を冠し、翼持つ者からもたらされた特別なものじゃ。人はその近郊を拠点に栄え、いくつもの国が建てられていった」
 そう言いながら顔を上げると、細い目が見つめる先には黒い雲が充満している空がある。
「だが時が経つにつれ、神の火は徐々に勢いを失し……。一つ、また一つと消えていってしまう。あれには何か定められた仕組みがあるのかもしれぬが、よく分からぬ」
 続けて発せられた言葉を裏付けるかのように、その場には身も凍えさせるような木枯らしが吹き抜けていく。
 それに少年は身を震わせながらも、話を聞き逃さないように懸命に耳を澄ませていた。
「火を失った国々はどこも大勢の人を遣わし、血眼になってまだ無事なものを探したが……。もう一つたりとも見つかる事はなかったらしい。まことに残念な事じゃ」
 一方で口惜しそうな老人は顔を俯かせ、目も段々と伏せられていってしまう。
「かつて人と共にあり、今は何処かへ去っていった古き神々の遺産。人々の間でまことしやかにそう噂されていたあれは……。見つける事にすら資格がいるんじゃろうて」
 そして最後にそういうと、落ち込んだ様子で腕を組むと深い溜息をついていった。
「でも、さ。神の火……。それさえあれば国も、人だって元に戻るんでしょ? また昔みたいな、綺麗で美しい姿と心に……」
「そうじゃのう……。もしも火が戻ればな。じゃが、現実に火は消え失せた。空にも黒い蓋が被せられ、日の光も滅多に浴びられなくなった。それくらいは知っているじゃろ?」
 だが少年が食い入るように前のめりで尋ねかけると、老人はふと考え込みながら答えを返していく。 
「うん……。そういえば、最後に太陽を見たのも随分前の話だっけ。そのせいで野菜とかも大分値上がりしているんだよね」
 すると少年も体を元に戻し、空を見上げていくがそこには明るさなどまるでない。
 どこまで行っても尽きる事のない黒雲のおかげで地上はすっかり冷え切り、今や口から吐き出す息も白くさえなっていた。
「そうじゃ。おかげで生活は苦しくなるばかり。人々の気持ちも荒む一方で、いずれ限界が来るのは目に見えている。このままでは、人は……。わし達は……」
 老人も頷きと身震いを行うと、苦悩を浮かべた顔をして目を閉じてしまう。
「ただあの寒空に押し潰されていくだけじゃろう。神の火を誰が授けたのかは、未だ確かではないが……。どのような意図があり、どうして消えたままにしているんじゃろうな」
「そんなの、僕には分からないよ。分かる、はずもない……」
 やがて聞こえてくる言葉によって、少年にも暗い気分が伝播していったのかもしれない。 顔を下げると男に殴られた部位を擦り、それからは二人は共にしばらく黙り込んでしまう。
「わしはずっとそれを考えていた。これでも昔は学者の真似事くらいはしておったからな。じゃが、その果てに出た結論は……。奪い合わせるため」
 やがて老人はなおも暗い顔のままであったが、ふと思い出したように口を開いていく。
「神は人を自らの手によって淘汰させようとしているのかもしれん。だから、そのために神の火を与えた。人はその元で急速に発展していくが、いずれその勢いは尽きていく」
 真剣でありながらも饒舌な声は静かな場によく響き、聞き入る少年も思わず耳を澄ませていった。
「それでも一度蜜の味を知った人は別の火を求め、どこまでも争いを広げる。結果として人は互いに食い合い、最後の一人になるまで闘争は終わらない」
 その語りは話すというより、まるで独り言でも呟いているように聞こえる。
「以前どこかで誰かが言っていたが、今は人にとって黄昏の時代。明るく光に満ちて栄華を誇る昼は終わりを迎え、果てしなく続く暗黒の世界である夜を迎えつつある」
 やがてそう言うと頭に手をやるようにうなだれ、もう顔を上げる事もなくなっていく。
「このまま人はやがて、滅んでいく運命にあるのじゃろう……。全く、本当に何という残酷な仕打ちをなされる事か……」
「ねぇ、そもそもの話なんだけど本当に火は全て途絶えてしまったの? もしかしたら世界中くまなく探せば、まだ火はどこかあるんじゃないの?」
 そして自ら光を遮るように目の前を手で覆ってしまう一方で、少年の顔にはまだ暖かな熱のようなものが残されている。
「そうじゃな……。探したとは言っても、世界の隅々まで探せる訳はないからのぅ。もしかしたら、まだ残されている火があるかもしれん」
「それ、本当?」
「うむ……。例えば人の少ない未開の地。そこは見た目は貧しくとも、ここと比べれば遥かに暮らしやすいはずじゃ。誰もが若々しく、怪我や病気になる者もいない」
 その事に気付いた老人はわずかに目を見張り、相手の言葉を反芻するように頭を働かせていく。
「およそ苦しみなどとは無縁の、楽園のような場所が一つくらいは存在しているかもしれんが……。ん? 急にどうした。どこかへ行くつもりなのか?」
 さらに深く推考を続けていると、不意に眼前で起こった動きに驚いたように声を上げていった。
「うん、神の火を探しに。今が黄昏の時で、これからも長い夜が続くとしても。そこに終わりはきっとある。黄昏の先にあるのは、いつだって光に満ちた輝かしい朝なんだから」
 対する少年はすでに立ち上がっており、その目は遥か遠くを見据えている。 強い意思や確かな決意を宿した顔つきは、子供の外見とはややかけ離れたものに見えていた。
「ほっほっほ……。どこにあるかも分からない。苦心と探求の果てに地獄を見るやもしれんのに……。さすが若い者は考える事からして違うのぅ」
 すると老人は不意に笑い出し、穏やかに言いながら同様に立ち上がっていく。 その目はじっと少年を見下ろし、にやついた表情は今までと雰囲気が違うかのようだった。
「へへっ、そうかな」
 対する少年はそれに気付かず、無邪気に喜びながら相手の方へ向き直っていく。
「じゃが、だったらその前にやる事があるじゃろう?」
 しかし老人の方は先程までとは打って変わっており、周囲の空気と同じような冷たい表情と声をしている。
「え? どういう、事……?」
「話を聞いたらお礼をする。親にはそう習わなかったのか?」
 明らかに困惑した少年が聞き返すと、その瞳には銀色に光るものが映っていく。 老人が手にしたのは小さいながらも、きちんと殺傷能力のあるナイフのようだった。
「あなたは、強盗なの? さっきの男達と同じような……」
 少年は自分の前で揺れ動き、掴もうと思えば掴めそうな程に近づいているナイフから目が離せないでいる。
「言ったじゃろう。わしはできる事しかしない主義じゃと。子供を狙うくらいなら、わしにも簡単じゃからのう。ほれ、怪我をせぬうちに金目のものを出しなさい」
 一方で老人はナイフによって優位に立っているからか、へらへらとした笑みをこぼしていた。 軽薄そうな態度はそれまでとは別人のようで、催促するように開いた手を伸ばしている。
「……習わなかったよ」
「ん?」
 視線の先では少年が落ち込んだように頷き、聞き取れない程に小さな声に老人が顔をしかめていく。
「習うより早く、親には捨てられたから。血の繋がりさえあれば、また違ったのかもしれないけれど……。僕は拾われた身だから。文句を言うつもりもないけどね」
 それでも次に顔を上げた少年は、声を大きめに言い返していった。 ただしその目はわずかに潤み、今も不安定に揺れ続けている。
「ほっほっほ……。そうか、お主……。まぁ、今時はそんなものは珍しくもない。それに、わしには何の関係もない事じゃよ。どれ、金目の物と言えば……」
 その姿を目にした老人の動きはしばらく止まったように思えたが、結局は少年の方へ向けて動き出していく。
「もう目ぼしいのはこれくらいかのぅ。まぁ、これに懲りたら安易に人を信用せん事じゃ。特に長話をする爺さんなどはな。ふぁっふぁっふぁっふぁ……!」
 そして少年の全身を粗方眺めていった後、首から下げられていたものをおもむろに引き千切っていった。
 無残にも壊されたのは少年の首から下げられていた古いネックレスであり、あまり価値があるようには思えない。 それでも先端には古い硬貨らしきものが括りつけられ、それを目的としたのかもしれなかった。
「あぁ、それから……。分かっているとは思うが、衛兵に告げ口などはせぬ方が賢明じゃぞ? 何しろわしは、そこらのごろつきとは違う」
 その後はもう用は済んだと言わんばかりに老人は踵を返すが、その途中で不意に立ち止まる。 わずかに振り返った顔にはひどく不気味な笑顔が貼り付き、腕の辺りを少しずつ捲くっているようだった。
「この町を影から支配し、ゆくゆくは国全体をあらゆる支配体制から解き放つ……。弱き人民のための解放組織である、鋭き赤銅の一味なんじゃからな」
 直後に自慢げに見せつけてきたのは腕に刻まれた赤いタトゥーであり、まるで悪魔が踊っているかのような意匠をしている。
 これまでの一連の流れで言葉を失う少年はそれを見ても大した反応を見せないが、老人はそんな事など意に介する様子はない。
 今度こそ用済みだと言わんばかりに少年から視線を外すと、もう後ろへ意識を向ける事もなくその場から速やかに立ち去っていった。

「今度はあんな訳の分からない組織まで……。こんな、こんな世界……。本当に何なんだよ、もう……」
 夜のように仄暗い路地裏で一人立ち尽くす少年は、それから力をなくしたようにその場でへたり込む。
 なけなしの金はおろか唯一の財産とも言える物まで奪われ、今の少年は本当に着の身着のままといった状態でしかない。
 吹き付ける風や気温はあまりにも冷たく、まだ幼い身の上ではこれからどうなるのか考えた所で気分ばかり落ち込むのも当然と言えた。


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