シン 2



「あ、あぁ。そうだな。そうしよう……。それがいいに決まってる……」
 やがてBも納得するかのように頷くと、残った迷いごと踏み抜くようにアクセルペダルに足を乗せていく。
 そうして再び発進した車を遮るものは今度こそなく、二人はそれから何事もなくそれぞれの家のある町へと辿り着く事ができた。
 その日の出来事にはいくつか不気味な所があったものの、全てが現実の範疇に収まるために何事もない記憶程度しか残らない。
 事実としてAは数日経った頃には、すでに山に行った事すら忘れかけていた。
 だが用事のために通っている大学へと赴いた時、唐突に前準備もなく思い知らされる事となる。 自分達は自由であると思い込んでいたが、すでに何者かによって雁字搦めに捕らわれていたという事実に……。

「おい、そこのお前。ちょっといいか。聞きたい事があるんだが」
「はい……? 何でしょうか」
 とある平日の昼下がりに、いきなり背後から声をかけられたAは何事かと思って振り返る。
 そこは大学の構内であり、今も周囲には行き交う学生の姿を多く見る事ができた。
「お前、Bって奴の事を知ってるよな」
 そんな中でそこに佇む男はスーツに身を包み、緊張感とある種異様な雰囲気を醸し出している。 鋭い目付きは何者をも逃さぬようであり、屈強な体つきなどは服の上からでもはっきりと分かった。
 年の頃は三十代を少し過ぎているくらいで、学生でもなければ大学の関係者のようにも思えない。
 しかも直前まで足音や気配など一切を感じさせず、密かに背後に忍び寄る動きなどから只者でないのは確かなようだった。
「はい、知っていますが。それが何か……?」
「最後にそいつの事を見たのはいつだ」
「いつ……? 確か、数日前でしょうか。でも、どうしてそんな事を」
「それから連絡を取っていないのか」
 Aがそんな相手を訝しむ一方、向こうからはお構いなしに言葉が飛んでくる。
「はぁ……。個人的に少々忙しかったもので。向こうも夏休みで色々と予定が立て込んでいるでしょうし」
「じゃあ今、そいつと連絡を取ってみてくれ」
「……? はい。まぁ、いいですけど。あれ……。おかしい。この時間なら出てもいいはずなんだけど……。まだ寝てるのかな?」
 それから言われた通りにスマホを取り出し、電話をかけて耳に当てるが反応は芳しくない。
 しばらくコール音を聞き続けてはみたが、その表情は浮かないままだった。
「ちっ……。やはりもう戻せる段階ではなくなっていたか。せめてあと少し、情報が早く回ってきていれば……」
 すると男はいつの間にか手にしていた紙を力任せに丸める、忌々しそうにポケットの中に捻じ込んでいく。
「あの……。さっきから一体、どういう事なんですか。そもそも、あなたは……」
「妖怪の話……」
「はい?」
「山に出る妖怪の話だ。お前、あの山に行ったんだろう? Bはその話を誰から聞いたと言っていた」
 対するAが様子を窺うように遠慮がちに問いかけると、男は抜き身の刀のようにきつい視線を返していった。
「確か、先輩だとか……。どこの誰だとか、詳しい名前とかそういうのまでは言ってませんでしたが……」
「ちっ……。こっちもやはりって所か。あのガキ、またやりやがった。あの社や闇舞といい、最近になっておかしな縁ばかり広めやがって……。一体、どういうつもりだ」
 その迫力におどおどとするAとは対照的に、男は終始苛々とした様子で動きもどこか落ち着きがない。
「これまで報告のなかった地域にまで出張ってきやがって……。どんどん活動が活発化しているのか。ちっ、面倒な……」
 その視線もすぐにAから外れると、今度は顎に手を当てて考え込むように下を向いていった。
「あの……」
「こっちの話だ、気にするな。それよりもお前……。意識や体調に変化はないか。あるいは周りから、いつもと違うとか言われたりしていないか」
「え……?」
「もし少しでも心当たりがあるなら、早めに手を打っておけ。寺でも神社でも何でもいい。でないと、後悔する事になるぞ」
 Aがなおも当惑した様子でいると、不意に顔を上げた男は一方的に言葉をぞろぞろと連ねていく。
「あいつの本当の住処は、山の中なんかじゃないんだからな……」
 そして相手の応対などお構いなしに背を向けると、それからすぐにその場を去るように歩き出す。
 予告もなしに現れ、余韻も残さずにいなくなる様はまるでいきなり吹き付ける突風かのようだった。
 後に残されるのは話す相手をなくして立ち尽くすAのみであり、心の中には言い知れぬ不安感ばかりが募っていく。
 周りを歩く学生達の明るい声や雰囲気からも孤立するように、その場では凍える程に冷たい空気がじっとりと肌を撫でるように流れ続けていた。
「全く……。何なんだよ、あの人……。ん……。これは、もしかしてあいつからか……?」
 以降もAは戸惑いを浮かべていたが、ふと手にしたままだったスマホに視線を落とす。
 すると画面にはメールが届いている旨の表示があり、開いてみると発信者はBとなっていた。
 だが件名や日付などはよく分からない記号に置き換わり、肝心の文章も大半の部分が文字化けしてしまっている。
 どこかに意味のありそうな所でもないかと読み進めても、ほとんど意味不明な文字の羅列でとても読めたものではない。
 それでもかなり先まで文字を送っていくと、ようやく普通に読めそうな文章に出くわしていった。

 A。いきなりだが、謝らせてくれ。本当にすまなかった。今さら言ってもどうしようもないが、あれは遊び半分のつもりで会いにいっていい存在じゃなかった。
 本来ならあれは、普通の人間とは一切関わりのないもの。あれの存在を認識し、遭遇さえしなければ何かされる事もなかった。
 だけど面白そうな話に釣られて、のこのことあれの前まで出向いていくなんて……。我ながら、本当に愚かとしか言いようがない。
 こんな事に巻き込んでしまったお前には、いくら謝っても足りないのは分かっている。だがどうか、せめてお前だけでも無事であってほしい。
 以下に俺の推測を示しておく。この情報を元に、どこかへ助けを……。

 大量の文字や記号がばら撒かれたメールの中、読み取れたのはこの辺りがほとんどとなっている。
 後はさらに内容を飛ばし、最後の方になってわずかな文章が残っているだけとなっていた。

 あれは、単に人の心に穴を開ける妖怪という訳ではない。真の目的はその先にある。そもそも、あれ本来の名前……。シン。それの意味を考えれば答えは自ずと……。

 文章はそこから先にもありそうではあったが、そこで唐突に途切れた後は何も表示されていない。
 初めから何もないような空白ばかりが延々と続くと、それ以上は進めない所までスクロールしてしまう。

「シン。しん……。侵……? まさか……」
 スマホを眺めたままのAはそれからもその場に立ち尽くし、時折側を通り過ぎる人の目も気にせずに考え込んでいる。
「あれが穴を開けるのは、自分が入り込むスペースを手に入れるため……。人の中に入り込んで安全を確保するのがその妖怪の生存する術だとしたら……」
 集中した頭の中で駆け巡っているのはあの日、山の中で経験した数々の出来事や一緒にいたBの姿などだった。
 それらを思い出す内、意識せぬ間に心臓の鼓動は自然と速さを増していく。
「いや……。仮にそうだとして、妖怪に入り込まれた当人の心はどうなる。乗っ取られるのか? 共存するのか? もしも前者だとしたら……。すでにあいつの中身は……」
 やがて視界までもがあの日の夜のように真っ暗に染まろうかとしていた時、不意に背後に誰かの気配を感じた。
「よう、久しぶり」
「……!」
 その方向から聞こえてきたのは他ならぬBの声であったが、いきなりの事にAは体が跳ね上がる程に驚いている。
「いやー、参ったよ。少し体調が悪くて、大学を休んでいたんだけどさ。それも無事治って、今日ようやく復帰できたんだ」
 背後から今も聞こえてくるのは間違いなくBの声で、抑揚や話し方なども変わっていないのは分かっていた。
 だがAは何故か振り返る事ができず、体を丸め込むようにしたままそっぽを向き続けている。
 すでに周囲にはぬめりのある独特な臭気で満ち、それは明らかに今までそこを流れていた空気とは異なっていた。
 これまでの人生の中であの山でしか嗅いだ事のないそれは、この瞬間にも自分の背後の方から漂ってきているらしい。
「ところでさ、あの山……。できたら、また行ってみないか? 今度は同じゼミの後輩とか連れてさ。な、いいだろ。なぁ、なぁ?」
 一方でBは何ら反応のない相手を変に思う事すらなく、そこからさらに次々と言葉を浴びせてくる。
 対するAは体を震わせながら、後ろからまくし立てられる言葉の勢いに懸命に耐えていた。
 するとそんな時、視界の端にゆらゆらと浮かぶ一匹の蛾を見つける。
 それは自ら飛ぶ力を失い、わずかに吹く風に流されるようにして終いには地面に落ちてしまう。
「……」
 一切の動きを止めたそれから目が離せない状態のまま、Aもひたすら同じように固まっていた。
「あぁ……? なぁんだ。もうばれちまったのか」
 やがてあまりの反応の無さから、何かを察したようにBは言葉を発する。 そのどこか陽気で楽しむような声は、いつまでも耳にこびりついて決して離れる事はなかった。


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