シン 1



 月明かりが道路を穏やかに照らすとある晩、二人の青年を乗せた車が舗装された道路を走っていく。
 仮に二人をAとBという名にするが、二人はとある大学に通うごく普通の大学生だった。
 今日はBが運転する車の後部座席にAが座るという形となり、今も夜道を快調に進んでいく途中にいる。
 辺りはすでに町からかなり離れて設置された街灯もほとんどなく、車の前後はもちろん反対車線にも行き交う車は少ない。
 田畑や山林といった自然の濃さが道を進むにつれて増していく中、ふと車を運転するBが話を始めていった。
「これは先輩から聞いた話なんだけどな。何でも人里離れた山奥に隠れ住んで、そこを訪れる人に害を為す妖怪ってのがいるらしい」
「ふーん。まぁ、よく聞く話だな。で、そいつは何をしてくるんだ?」
「あぁ、まずその妖怪には特別な力があってな。どうやら、穴を開ける力があるんだそうだ」
「穴……?」
 前を見ながら話し続けるBの言葉に初めは頷いていたAも、不意に怪訝そうな顔をして首を傾げる。
「あぁ。それは人の内側、心とか魂とか……。とにかくそういう精神的な領域の事らしい」
「ふむふむ、それで? そこからどうする」
「それでお終いさ。一度に大幅な変更を加えると、その後に来る変化も急激なものとなる。人で言えば精神を病んだり、人が変わったかのような変貌を遂げてしまう」
 Bがそれからさらに流暢に話し続けていると、Aは次第にシートに沈めていた体を起こしていくようになった。
「そうなってしまえば、人は病院に行って治療を受けるなり……。あるいは寺や神社に行ってお祓いでも受けたりするだろ? そうなったら今までの苦労が水の泡だ」
 一瞬でもバックミラーでそれを確認したBは、少し得意げに口元を緩めていく。
「だから少しずつ、決して気付かれない程度に穴を開けていく。心のほんの片隅……。初めは何の影響も及ぼさない程度の針の穴くらいから、少しずつ広げていくんだと」
 わずかな月明かりが照らす表情は普段と変わりないが、その時はわずかに暗さを増しているかのようだった。
「ちょっと待て。それって、つまり……。そうなるには、何度もその妖怪に遭わなくちゃいけないって事じゃないのか?」
「目聡いな。確かにその通りだ。穴を開けるのが一度で済まない以上、どうしても複数回の遭遇が必要となる。だが妖怪ってのは、人間みたいに好き勝手に動けるもんじゃない」
 やがてAが完全に前のめりになって問いかけてくると、Bは少し辺りの様子を見回すように視線を動かしていく。
 もうすでにそこでは道路以外は人工のものはほぼ見かけず、対向車ともすれ違わなくなって久しい。
「大抵は住処や生息域ってのが決まっているし、縄張りなんてのもあるみたいだしな。向こうから気軽に来れるって訳でもない」
 辺りに広がる暗闇の奥底はとても見通せそうにないが、Bはそれでもそちらから目を離そうとしなかった。
「じゃあ、どうやって……」
「一つ、仕掛けを施しておくのさ。穴を開けた時、ついでに心の内側に残しておくんだ。またここに来たい、という思いを」
「何だ、それ?」
「心の片隅にそれがあるなら本人の意思やすでにある予定など関係ない。少しの時間を経てからある日ふと思い立つ。あぁ、あそこへ行こうと」
 それからAの疑問に答えつつ、Bは再び車中へ意識を戻すと運転を続けていく。
「そうしてまんまと妖怪の思惑通りに訪れてしまうんだ。本来なら知る由もなかった、自分とは明らかに異なる者の住処をな……」
「それって……。針を刺した時に痛みを感じさせないように、麻酔成分のある涎を注入する蚊みたいだな」
「あるいは鎌鼬って例もある。風で転ばせた後に鎌で切り付け、最後に薬を塗っていくやつだ。虫にしろ妖怪にしろきちんとアフターケアを行う奴はいるって事だよ」
「ふぅん……。なかなか律儀なもんだな。それで結局、心に穴を開けられた後はどうなるんだ? その妖怪は何のためにそんな事を……。そいつにどんな得があるんだ」
 Aも徐々に話にのめり込みつつあるようだったが、まだ疑問が残るのかBの座るシートを掴むと自ら距離を詰めていった。
「さぁ……。俺が先輩から聞いたのはここまでだからな」
「そもそもその先輩ってのは信用できるのか。何だか凄く胡散臭いぞ」
「さぁな……。何だかこういう話に色々詳しいらしくてさ。この前、たまたま話を聞いてからずっと気になっていたんだ。それで渋る先輩に酒を飲ませて何とか聞き出した」
 だがBの方はあくまで軽く答えを返すばかりで、Aとは対照的なくらいに気が抜けている。
「ん? 何をだ?」
「その妖怪の住処さ」
「はぁ……。ん? おい、待て。それって、まさか……」
「そう。今、丁度向かっている場所だ」
 そして段々と不安感を増すAに対し、Bは指し示すように顎を前方へと向けていった。
「おいおい……」
「あくまで聞いたのは山の場所だけで、その妖怪がどこにいるかまでは分からないんだけどな。まぁ、そこは行ってみればどうにかなるだろ」
「ちょっと待て。お前、正気か?」
「いいだろ、別に。夏休みなんだし、どうせ特に予定なんてないだろ。それともバイトとか補修があったりするのか。まさか彼女でもできたか?」
 以降もAが明らかに嫌がる様子なのとは対照的に、Bはあっけらかんと茶化すように微笑みすら浮かべている。
「それは、まぁ……。確かにないけどさ」
「じゃあ、いいじゃあないか。これも一夏の思い出ってやつだ」
「いや、でもさ……。もしもだぞ? もし仮にその妖怪に遭ったら開けられるんだろ。心に、穴を……」
 それを見るとAも毒気を抜かれた様子だったが、すぐに思い直すと食って掛かる。 体はまだ後部座席に座っているが、上半身はすでにBのすぐ側まではみ出している程だった。
「あぁ。そうらしいな」
「それって大丈夫なのか。いや、そもそも妖怪に会うなんて事自体ないだろうが……。万に一つでも、何かヤバい事でもあったら……」
「さぁ。それは分からん」
 しかし相手は今もなお落ち着き払った様子で、声と気分を暗くしつつあるAにあっさりと言い切っていく。
「は……。はぁ?」
「だが分からんから、調べる。自分が実際に見聞きしたものこそ何よりの財産であり、偉大な収穫である。俺のゼミの教授の言葉さ」
「お、おう……」
「って事で、まずはとにかく行ってみようぜ。その後の事は着いてから考えよう」
 ただし明確な根拠に裏打ちされた自信という訳でもなく、Aの困惑を断ち切るまでには至らないようだった。
「いやいや、待て待て。変に納得しちまう所だったが、よくよく考えてみればおかしいだろ。そんなのお前一人で行けばいいのに、どうして俺も行かなくちゃいけないんだ?」
「ん? そんなの決まってるだろ。一人だと怖いから、だよ」
 そのためにAは改めてBの座るシートを強く掴むと、これまで以上に語気を強めていく。
「ふ……。ふざけんじゃねぇぇええええ!」
 だが返ってきたのはどこまでも呑気な言葉であり、Aは思わず感情を爆発させるように声を荒げる。
 ただしそれは虚しく車中に響き渡るのみで、それからも闇夜を走り続ける車が止まる事は一切なかった。

 それから目当ての山の麓に車を乗りつけた後、二人はややおっかなびっくりとしながらもそのまま山中へと入っていく。
 辺りは光源がないためにかなり暗いが、ある程度の管理はされているのか間引きされた木々の間に月明かりが差し込んでいる。
 加えてBが用意しておいたライトによって少しは快適に歩けているが、やはり夜の山の中には異様な雰囲気が漂っていた。
 周囲では時折風の音がするのに、実際にはあまり風が通り抜ける感覚はほとんどない。 あるのは肌に纏わりつくような、どこか生ぬるくじめっとした空気だけだった。
 さらに草木の臭いとは少し違う、鼻の中をむずむずとさせるような臭気さえしてくる。
 それらは少し前までいた車内とは明らかに違う変化であり、呼吸や歩行をする度に否が応でも感じてしまう。
「なぁ……。さすがにもういいんじゃないか。これ以上奥まで入り込んだら、下手したら遭難しちまうぞ」
 Aもここまでは何とか我慢してついてきたものの、いい加減に辟易としてきたようでその場で立ち止まってしまった。
「そうだな。どうやら何もおかしなものはないみたいだし……。ここらで切り上げるとするか」
 するとBも少し先の辺りで最後にもう一度だけ辺りを見回すと、そう言って納得するように頷いていく。
 そして二人はこれまで進んできた道を引き返していくと、無事に車を停めていた地点まで戻ってくる事ができた。

「ふぅ……。こんな所に連れてこられた時はどうなる事だと思ったが、何とか終わって良かったな。ん……?」
 車が見えてきた辺りからAはやや早足になって近づいていったが、それからすぐ間近まで近づいていった所でふと足を止めてしまう。
「どうした? そんな所で立ち止まって。小便でもしたくなったか」
「これ……。見てみろ」
「ん? うわ……」
 それに気付いたBが声をかけると、Aはそのまま車の方を指し示していった。
 その先を目で追っていくと、全ての窓にびっしりと張り付いた蛾の大群に気付かされる。
 おびただしい数の蛾は窓を埋め尽くした上になおも重なり、鱗粉などを散らしながらカサカサと音を鳴らし続けていた。
「何だ、これ……。気持ちわりい」
「と、とにかく行くぞ。もうこんなのに構っていられるか」
 いくら自然の中とはいえありえない光景にAが言葉を失っていると、Bはそう言って車のドアを強引に開く。
 続けざまにドアを強めに閉め、さらに開閉を繰り返しながらそこにいる全ての蛾を強引にでも散らせていった。
 そして二人は辺りを飛び回る蛾の大群に苦戦しつつも、何とか車に乗り込むとその場を離れようと試みる。
 しかしエンジンがかかって発進してからすぐ、何故かBは車を急停止させてしまった。
「おい、何だよ。どうして急に止まったりするんだ」
「いや……。今、ライトに一瞬だけだが影みたいなものが映った気がしたんだ。あれは……。あの形は……」
 Aが訝しげに尋ねてみるが、Bは目の前に広がる暗闇に目を凝らすばかりであまり要領を得ない。
「多分、動物か何かだろう。早く行こうぜ。ここは何だか気味が悪い。夜だからとか、山だからとか関係ない。人がいちゃいけない、何だかそんな感じがするんだ……」
 一方でAは一刻も早くこの場を後にしたいのか、運転席を手で掴むと急かすように揺らしていく。 そう言いながらもしきりに辺りに目を配らせる様は、周囲のどこかに本当に何かがいるのを感じ取っているかのようだった。


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