鬼 1



「待て、どこへ行くんだ! 逃げるのか!?」
 ふと頭上の方から響く怒気を含んだ声に対し、一人の少年が階段を下りる途中の踊り場で振り返る。
 見ればやや上方には明かりを背負うようにして仁王立ちをする、眼帯をした背の低い少年が立っていた。
「いいや。辞めるんだよ」
 対照的と言えるくらい薄暗い場で答える少年は、そっくりな程に暗い表情を浮かべている。
「同じ事だ……!」
 眼帯の少年は以降も激昂した様子で、勢いよく足を踏み出すとそのまま階段を降りてきた。
「お前は放っておくつもりなのか? 何の力も持たない人達を襲い、多くの災禍をもたらす……。凶悪な妖怪共を、このままのさばらせておくとでも言うのか!」
「確かに……。この世には、人を害する妖怪が数多く存在する。でもだからといって、全てを討伐するなんていくらなんでも横暴過ぎる」
 さらに手痛くぶつけてくるような声に対し、少年はひどく落ち着いた様子で答えていく。
「人と共存する……。いや、そこまでいかずとも……。互いに距離を取って、それぞれ別個に生きていく事だって……」
「腑抜けた事を言うな。お前がそんな弱気でどうする。三雲の事を思い出せ! あいつは、あんな……。あんなひどく、無残に殺されたんだぞ。それを忘れるのか!」
「それは……。今でも許せないし、これからも許すつもりはない。でも例えば犯罪者がいるからって、人の全てを憎むなんて……。そんなの筋違いだし、おかしな話だろう?」
「諦めるな! 俺は逃げないぞ。俺は、俺から大事なものを奪った奴等の命を……。存在そのものをこの世から消し去るまで、絶対に諦めはしない!」
 だが眼帯の少年は相手の意思など気にしないのか、派手な仕草と共に大声を発し続ける。
 その声は人気のない辺りに反響するかのようだったが、いつまで経っても二人の間の距離は変わらない。
「そうか。でも、俺はもう疲れたんだ。そんな風な考え方や生き方を、これからもずっと貫いていくなんて……。俺には到底、できそうにない」
 少年は最初から最後までずっとやつれた顔つきのまま、言い終わる前に流れるように動き出す。
「っ……。どうして、お前は……。本気を出せば、誰よりも強いはずなのにどうして……」
「買い被りさ」
「逃げるな! 立ち向かえ!」
 眼帯の少年はその場に立ち尽くしたまま、なおも相手へ向けて尽きぬ思いを投げかけていく。
 それでも肝心の相手が止まる事はなく、それどころかもうこちらへ振り返る事すらしなかった。
「っ……! 馬鹿野郎! 大馬鹿、野郎!」
 一人その場に残された眼帯の少年は、負け惜しみにも似た渾身の叫びを放つしかない。 その目元にはきらりと光る涙が、流れる事なくいつまでも浮かび続けていた。

「……」
 季節も秋口を迎えつつあった頃、町の片隅にある古びた建物の影に一人の少女が倒れていた。
 一応呼吸はしつつも体の具合でも悪いのか、うつ伏せのままそれからも動こうとしない。
 そんな少女は町中の至る所に近代化の波が押し寄せる時代にあって、最近あまり見かけない実に古風な格好をしていた。
「えっと……。おーい……。だ、大丈夫か? こんな所で何しているんだ?」
 すると次の瞬間、夕陽の差す方角から一人の青年が姿を現す。 あくまで相手を心配しつつも、不安や緊張を抱えているためかその動きは少しぎこちない。
「うぅん……。とりあえず、生きてるみたいだな。一応、ひどい怪我をしているって訳でもなさそうだ……」
 そのために及び腰ではあるが、それから少女の方へ近づくと様子を慎重に窺っていった。
 手に提げた袋からは野菜などが顔を出し、ちょうど買物から帰る途中だったのかもしれない。
「う……。ぁ……」
 やがて少女は青年の声に反応するかのように、わずかに声を上げると顔の一部を歪めていく。
「お、気が付いたか? おーい、大丈夫か? 一体どうしたんだ、こんな所で横になって」
「お……」
「え?」
 それを見た青年が改めて問いかけると、少女はまだ目は瞑ったまま口だけを動かしていった。
「お腹、空いた……」
「え、えぇっと……。はは、困ったな。こんな所で腹が減ったと言われても……。さて、どうしたものか。病気でも怪我でもないようなら……」
 ただし続く言葉を耳にすると、青年はあからさまに気が抜けた様子で苦笑する。
 さらに戸惑ったように目を泳がせつつも、これからどうするかじっとその場で考え込んでいく。
 すでに頭上では空が大分暗くなり始め、夕陽を受けて伸びる自分の影も建物の影に溶け込んでいくかのようだった。
「だけどまぁ、仕方ないか。偶然だろうと、こうして立ち会ってしまったんだし。放っておく訳にも、いかないよな……」
 やがて観念したかのように短く息を吐くと、青年は誰かに話しかけるかのように呟きながら動き出す。
 そして手にしていた荷物を腕にかけたまましゃがみ込むと、少女の体を優しく抱え上げていく。
「何だ、随分と軽いな。本当に、あんまり食べていないのか……?」
 直後には青年は驚いたように声を上げるが、少女の方には目立った反応はない。
 それからも青年は荷物と少女を抱えたまま、ぽつぽつと点き始めた街灯を目指すように歩き出していった。

 青年は和風な趣のある自宅に少女を連れ帰った後、布団を敷くとそこに寝かせていった。
 きちんと布団を体にかけた後は、改めて様子を窺うようにその顔をじっと眺めていく。
「う、む……。ここは……?」
 すると少女は自らに差す影に気付いたかのように、目を擦りながら周囲へ視線を向けていった。
「お、目を覚ましたか。体の調子はどうだ。物はちゃんと見えているか? どこか痛い所とかはないか?」
「いや、特には問題ない……。それより、お主……。ここはお主の住処か?」
 気付いた青年が身を引きながら問いかけると、少女は身を起こしながらなおも目を忙しなく瞬かせている。
 室内は物がごちゃごちゃと置かれているが、高級な品などはほとんど見当たらない。 生活感の溢れる部屋と言えば聞こえは良いが、要は一般庶民の平均的な住まいに他ならなかった。
「あぁ、そうだよ。あそこからたまたま近かったから、とりあえず運んできた。ところで君、誰かと一緒じゃないのか? 親や兄弟とはぐれてしまったのか?」
「いや、そうではない。妾は一人でここに来た……。少し、用があったからの……」
「用事か……。でも、一人だけど……。そもそも、家はどこなんだ? この辺りの子じゃないのか?」
「妾の、住処か? それは、ここから山をいくつか超えた辺りにあるが……。それが、どうかしたのか?」
 それから青年が湯呑を口元に運びながら尋ねかけると、少女はまだ夢現とした状態ながらきちんと受け答えをしていく。
「どうかしたのかって……。じゃあ、これからどうするんだ。今から帰るにしたって遅すぎるし……。それとも、どこか泊まるあてでもあるのか?」
「そんなもの、ある訳なかろう。このような大きな人里に来たのも初めてじゃし……。そもそも人の知り合いなど、一人もおるはずがあるまい」
「そ、そうか。まぁ、とにかく……。付き添う大人もいない。どこか泊まれる場所もないってんじゃ、とりあえず迷子として届け出るしかないか……」
 青年はある意味で堂々と、かつ悪びれる事もない姿に面食らいつつも一人で考え込んでいる。
「む……。お主。いきなり、何を失礼な事を申しているのだ。妾が迷子じゃと? お主、妾を一体誰だと思っておるのじゃ?」
「誰って……。ただの子供だろ? どこでにもいるような、ごく普通の」
 対する少女が不満そうに頬を膨らませていると、青年はそちらへ手を伸ばして頭の上に軽く手を乗せていった。
「愚か者! 妾を見くびるでない! 妾は並みいる妖怪の中でも特に強く、賢く……。とても長い歴史を持つ高貴なる存在、鬼であるぞ!」
 すると少女はあからさまな程に怒りを浮かべ、乗せられた手を払い除ける。 さらにいきなり立ち上がったかと思うと、青年を見下ろすようにしながら声を張り上げていった。
「……」
「ちなみに名は麗。どうじゃ。妾程にもなると、名前まで実に美しかろう?」
「へぇ……。そうなのか。鬼ねぇ。そりゃ凄いな」
 ただし青年は特に目立つ反応もなく、自信に満ち溢れた麗とは対照的にすら思える。
「な、何じゃ。その冷めた反応は……。えっと……。もしかしてお主、鬼というものを知らんのか?」
「いや、知っているよ。鬼なんて一番有名と言っていいくらいの妖怪じゃないか。確か酒好きで力持ち、それで頭に角が生えているんだっけ……?」
「おお。そうじゃ、そうじゃ。何じゃ、よく知っておるではないか。うんうん、まだ若いのに感心じゃな」
 すると麗も途端に不安そうな表情をするが、頭を捻る青年の言葉を耳にすると腕を組みながら何度も頷いていく。
「よし。それでは助けられた礼もあるし、お主には特別に良い物を見せてやろう。光栄に思うのじゃな。ほれ、見るがいいぞ」
 続けて機嫌を良くしたまま髪をかき分けていくと、頭頂部の辺りを見せつけるように身を屈めていった。
 見ればそこには髪に隠れる程小さいが、確かに角のようなものがある。
「ふーん、何か想像と違うな。鬼の角って言うくらいだから、何と言うか……。形とか、色とか……。もっと尖っていたり、禍々しい色でもしてるかと思ったのに」
「うむぅ……。お主、本当につまらんのぅ。別に悲鳴の一つでも上げろとは言わんがな。そうまで淡々とされていては、何だか鬼としての自信を失くしてしまいそうじゃ……」
 しかし対する青年はごく普通に眺めるばかりで、期待する反応と違った麗はどこか物悲しそうに表情を曇らせていった。
「まぁ、妖怪を見るのはこれが初めてじゃないからな。それにしても、まだ鬼の生き残りがいたなんてな。確か何年か前に、大規模な討伐戦があったはずだが……」
「そうじゃ。以前に人と鬼の間で大きな戦があった。妾はその生き残りじゃ。本当は物凄く、物凄く強いんじゃぞ。お主なんて、妾がその気になればいつでも殺せるのだからな」
「こら、そういう事を軽々しく言っちゃ駄目だぞ。それと初めての相手、目上の人間にはもっと丁寧に接した方がいい」
 それからも青年は相変わらず冷めた見方をしていたが、まだ不満気な麗に対して真摯に応じている。 相手の方をまじまじと眺めながら注意をする様は、年下の子供に注意をしているかのようだった。
「ぐぐぐ……。妾に説教とは小生意気な事を。だがのぅ。今の言葉、そのままそっくり返してやるわ。妾は、お主なんぞよりよっぽど長く生きておるんじゃからな!」
 一方で麗は納得がいかない様子で、顔を真っ赤にすると大きな声で言い返す。 だが周りを顧みない派手な動作などを含めても、その様は幼子が癇癪を起こしているようにしか見えなかった。


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