第10話 風


「!?」
「わ!?」
 シンはいきなり眼前に現れた人影を見ると、驚きに体を固めていく。
 一方でレイナもこんな目の前に誰かがいたとは思わなかったのか、非常に驚いた様子だった。
 幸いにも二人がぶつかる事はなかったが、すぐ近くでいきなり顔を突き合わせてしまう。
「シン……。だ、大丈夫なの!?」
 レイナはまだどこか驚いた様子だったが、すぐに心配そうに問いかけてきた。
「は? 何がだよ」
 だがシンは何の事か分からず、眉間にしわを寄せている。
「だって、その血……!」
 一方でレイナはひどくうろたえ、手を震わせながら体を指差していく。
「あぁ、これは俺のじゃない。何ともないぜ、ほら」
 シンもようやく何を言われているのか気付き、自分の体を叩いていく。 そこには風龍の体から排出された時についた血が残り、黒く固まっていた。
「そ、そう……」
 レイナはようやく安堵しつつも、それ以降は話す事が思いつかなくなったようだった。
 二人は互いに何を言えばいいのか悩み、玄関の辺りで黙り込んでしまう。
「あの……。えっと……。お帰り!」
 それでもレイナは気を取り直すと、明るく話しかけていく。 ただし声は不自然なまでに大きく、空元気だというのがひしひしと感じられた。
「え……?」
 しかしシンにとっては、普通に迎えられるという対応は予期していないようだった。 てっきり拒絶されるかとでも思っていたのか、戸惑いと驚きを隠せないでいる。
「お帰り、シン……。帰ってきてくれて、良かったよ……。心配していたんだからね……」
 だがレイナは本当に嬉しそうに笑顔を浮かべ、目からは幾度となく涙を流して繰り返し呟いていた。
「あぁ……。でも、俺は……」
 ただシンは対照的に表情を曇らせ、はっきりと何かを答える事が出来ずにいる。 伏し目がちな目は横に逸らされ、口は言い淀んでまともに動いていなかった。
 何かを言うつもりはあるようだが、実際に声が発せられる事はない。
 それからも突っ立ったままで、レイナも涙を拭うくらいしかしていなかった。
「ほれ、そんな所で何をしている。早く家に入ってこんか」
 やがて気まずそうな空気を感じ取ったのか、家の中からは声が聞こえてくる。
 話しかけてきたのは老婆であり、玄関の方を呆れたように見つめていた。 その姿は嬉し泣きをしているレイナとは正反対であり、どこか淡々としていた。
「婆ちゃん、俺……」
 シンはそれに気付くとまた何かを言おうとするが、先程と同じで何も言えない。
「さぁ、いいから早く入れ。ここに帰ってきたのは、お前がここに帰ってきたかったからだろう?」
 それでも老婆には何も変わった様子などなく、ごく普通に話しかけてくる。
「それは、そうだけれどさ……」
 シンはいつもと変わらない姿に戸惑いつつも、小さく頷いていった。
「なら、何も気にする必要はない。風は流れゆくもの。時には分かち、時には束ねられて。どこかからどこかへ終わらない旅を続けるもの」
 老婆は次に目を細めると、じっと見つめながら話していく。 実際の態度には現さずとも、内心には秘めた優しさのようなものが感じられる。
「だがそれを繰り返すとしても、だからこそ風は自由だ」
 そしてはっきりと言い切った言葉は、シンのために発せられたものなのは間違いないようだった。
「でも、俺は……」
 それでもシンは何かを伝えぬ事には、ここから前に進めないと思っているらしい。 今も家の敷居を跨げず、落ち込んだ気持ちと共に家の外に留まったままだった。
 口にしようとしているのは今まで自分でも知る事のなかった正体であり、重大な秘め事のようだった。
「お前はうちの子だ。誰であろうと、何であろうと関係ないよ。それにいつかまた、どこかへいくのだとしても……」
 だが老婆はそれを聞くより早く、ゆっくりと話しかけていく。
 シンも声に導かれるように考えを中断させ、耳を澄ませていった。
「今は流れるのを休み、それからゆっくりと今後を考えればいい。自分の家と定めた所で。自分の家族と定めた者達とな」
 そして老婆は家の中へ目やった後、最後にシンとレイナの二人を眺めていった。
「……どうじゃ?」
 やがて最後に見せた微笑みは普段はほとんど見られないもので、どこか別人のように見える。
「婆ちゃん……。あぁ。そいつは楽しそうだ。たぶん、それだけで十分なんだよな……」
 しかしシンはだからこそ余計に納得出来たかのように、晴れ晴れとした顔で目を瞑ったまま微笑んでいく。
 そして今まで不動だった足は、ゆっくりと前に進むと敷居を易々と跨いでいった。
「……あれ。もしかして、シンったら柄にもなく泣いてんの? 情けないなぁ。まるで子供みたいだよ」
 レイナも目の前にある横顔を見ると嬉しい気持ちが抑え切れないのか、指差しながらからかうように言う。
 確かにシンの目は潤んでいたが、涙と言える程にはっきりとしたものはない。
 それに比べてレイナの目には明らかに涙が浮かび、どちらかといえばレイナの方が泣いているように見える。
「ほら、シン。白状しなさいよ。あんただって泣いてたんでしょ?」
 だがレイナはそんな自分を棚に上げ、とびっきりの笑顔を絶やさずに突っかかっていった。
「ほんに子供じゃのぅ……」
 老婆は空気を読めない孫に呆れ、これから起こるであろう一悶着に辟易としている。
「へへっ。さぁ、どうだろうな。涙だとか悲しみだとか……。そんなもんは全部、風に乗ってどっかに吹き飛んじまったよ」
 それでもシンは特に言い返すような事はせず、余裕の反応を見せている。 顔にはからっとした爽やかな笑みを浮かべ、鼻の辺りを擦りながら迷いの消えたような明るい声が発せられていた。
 それを見つめるレイナはもちろん、老婆ですら驚きを隠せずにいる。 何故なら少し前までのシンと違い、そこには大人のような柔軟な対応があったからだった。
 そしてそれを後押しするかのように、山には風が吹き抜けていく。
 シン達がいる家の中にも風は吹き、それはどこかへ向けて通り過ぎていった。
 荒れ狂う様子などは全く感じられず、ただの優しい風は緩やかに流れながら山中を駆け巡っていった。


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