第10話 風


 照った日差しを受ける山の頂上付近には、ぽつんと小さな家が一軒だけ建っている。
 周りには他に人家などまるでなく、その家は自然の風景の中に溶け込んでいるかのようだった。
 木を組んで作られた家は素朴ではあるが、少し狭いようにも見える。 それでもどこか温かみに満ち、住んでいる者の心を自然と和らげるかのようだった。
 そして現在、そんな家の中には二人の人影がある。
「どうもすみませんね。今、使いをやったのでシンはもうすぐ帰ってくると思いますので……」
 今もさんさんと日光の差し込む室内では、その内の一人である老婆がそう言いながら頭を下げていく。 同時にその手には茶の入った湯呑が持たれ、目の前に座る誰かに差し出していった。
「いえ、お気になさらずに。私はそれほど急いでいませんから」
 対する女の顔は日に照らされてよく見えないが、その口元は優しげに緩められている。
「ふぅ……。それにしても、今日はいい天気ですね。こんなに穏やかだとつい眠くなってしまいそう」
 それから女は茶を受け取ると一息つき、外を眺めながら光の眩しさに目を細めていく。
 たおやかな笑みを浮かべながら佇む女こそ実は他ならぬツクハであり、時折茶を口にしながらゆったりとした時を過ごしていた。

「お婆ちゃん、ただいまー」
 するとその時、玄関を開ける音と共にレイナの元気な声が響いてくる。
「おや、帰って来たようじゃな」
 それに気付いた老婆がそちらへ顔を向けると、続くようにツクハも視線を動かしていく。
「ん、えっと……。あぁ、そうか。あんたなのか、俺を訪ねてきた客ってのは?」
 その直後には玄関に荷物を置いてきたシンが現れ、首筋の辺りをかきながらぶっきらぼうに話しかけてきた。
「これ、何じゃその言い草は。初対面の人に対して失礼じゃろう。口に気を付けい!」
「ちっ、うるっせえな……。別にどっかの国の王様と会った訳でもねえのに、堅苦しいんだよ……」
 老婆はそれをしわがれた声で叱り付けるも、シンはそれを聞き流している。 面倒そうな顔で肩の辺りを軽く揉む姿からは、反省する素振りすら感じられない。
「何度言っても懲りん奴じゃな……。聞こえたのなら返事をしてこっちを向かんか! シン!」
 そのために自然と老婆も声量を増し、さらに叱り付けようとしていく。
「あら、私は気にしていませんからどうかお気になさらず。それより、こんにちは。あなたがシンさんね?」
 だがツクハの方は特に気にしていないようで、湯呑を置くと立ち上がっていった。
「それじゃあ、さっそくお話があるんだけれど……。でもここでは何だし、ちょっとついてきてくれるかしら?」
 そしてにこやかに話しかけつつ、シンの側を通り過ぎると一人で玄関の方へと向かってしまう。
「は? 俺は別にここでも構わないが」
 対するシンは呆けたように行動が遅れていたが、相手がいなくなった以上は残っていても仕方がない。
「ったく……。勝手に来ておいて、そのまま勝手にいなくなるとは……。これだから都会の奴は始末が悪い……」
 文句を口にしつつもツクハの後を追うように歩き出し、そのまま二人は家の外へと出ていってしまった。
「……」
 一方でその場に残されたレイナや老婆は口を挟む事もなく、ずっと同じ場所で固まっている。 その視線はどちらも外へと向けられ、やがてその先からは二人の話す声がわずかに聞こえてきた。
 しかし壁を隔てては肝心な事は何も聞こえてこず、どんな話をしているのか予想する事すら難しかった。
「ねぇ、お婆ちゃん。あの人、何しに来たんだろうね。シンは木の注文って言ってたけれど、私は何だか違う気がする……」
 そのためにレイナも早々に諦めたが、まだ目は外の様子を窺っている。
 すでに二人が話をし始めてから幾らか時間が経過しているが、全く戻ってくる様子はない。 それだけ重要な話をしているのか、レイナはかなり気にしているらしかった。
 一方で老婆はやきもきとするレイナを横目にしつつ、何も言わずに静かに茶を飲んでいる。
「……時が、来たのやもしれんな」
 それでも次の瞬間には湯呑から口を話すと、どこか重苦しい表情で呟いていった。
「え?」
「お前は幼かったから覚えておらぬかもしれんが……。あの子は昔、一人きりで彷徨っていたのを保護して育ててきたんじゃ。もちろんお前やわしと血の繋がりはない」
 対するレイナが聞き返すように振り返ると、老婆は続けて神妙な顔つきで話し出す。
 じっと見下ろす湯呑の中にある茶は、老婆が話す度に振動しながらゆらゆらと揺れていった。
「う、うん……。それは何となく覚えてる。ちっちゃい頃、初めて出会った時の事。でも、それがどうしたの。私はシンの事を兄であり、弟みたいな存在とも思っている」
 レイナはその姿を見ると不安になってきたのか、どんどん表情を暗くする。 さらに落ち込んだ様子でふらふらと歩くと、老婆の正面に座り込んでいく。
「シンだって昔の事は忘れているみたいだけれど、ちゃんと私達と暮らしているし……。少し口は悪いかもしれないけれど……。絶対、私達の家族だよ」
 それでも話す内に段々と活力が戻り、最後に言い切った時には本当に強い意志が窺えた。
「それは分かっとる。じゃがもしかしたら本当の家族は今でもあの子を捜していて、さっきの人はその迎えとして来たのかもしれん……」
 だが老婆の方はなおも俯いたままで、やがて諦めるかのように目を閉じていった。
「嘘……。じ、じゃあシンはここからいなくなっちゃうの? 私達を放って、どこかに行っちゃうの?」
 するとレイナは明らかに狼狽した様子を浮かべ、慌てて老婆の方に詰め寄っていく。
「それは分からん。じゃがこればかりはわし達にはどうにもならん事じゃ。結局はあの子が決める事なのだから……」
 老婆の方は対照的に落ち着いてはいるが、依然としてその表情や言葉は硬く強張っている。
「でもお婆ちゃん、急にそんな事言わないでよ……。そんな話、いきなりされても……。私、どうしたら……」
 レイナからすればそれはいつもとはまるで違う様子だったのか、その反応からは戸惑いを隠せていないようだった。
 そしてレイナはそれから何も言えなくなり、目を泳がせながらじっと何かを考えこんでいく。
 続くように老婆の方も黙ると室内には気まずい沈黙が流れ、やけに時間が過ぎるのが長く感じられた。
「すまんな、レイナ。だがそれだけならむしろ良い方かもしれぬ。もしかしたら、シンは……」
 やがて幾らかの時が流れた後、老婆は目を伏せながら小さく呟いていく。
「えっ……?」
 しかしまだ情報を整理し切れていないレイナは聞き逃してしまったのか、もう一度聞き返そうと今まさに口を開きかけている。
 ただしその次の瞬間、不意に玄関が開いて誰かが家に入ってくる足音が聞こえてきた。
「!?」
 レイナはそれに気付くと急いでそちらへ顔を向け、誰が戻ってきたのか確かめようとする。
「皆さん、どうもお邪魔しました。名残惜しいですが、私はこれで失礼させてもらいますね」
 そこへ現れたのは満足そうな表情をしたツクハであり、二人の少し前で立ち止まると穏やかに一礼をしていく。
「……?」
 レイナはその後にシンが続くかと何度も顔を動かして後方を覗き込んだが、もう誰も入ってくる様子はなかった。
 それに気付くと自然とレイナは焦燥感に包まれ、手に力を込めて握り締めていく。
「おや、もう帰られますか。良ければ特製の漬物などを召し上がってもらおうかと思っていたのですが……」
 一方で老婆は柔らかな表情を浮かべつつ、ツクハと正面から向き合っていった。
「いえ、どうぞお構いなく。もうこちらの用事は済みましたし、他に寄る所もあるので……」
 対するツクハは変わらぬ笑顔を浮かべたままで、一定の距離を保ったままそれ以上は深入りしてこない。
 二人はきちんと視線を交わしつつも、どうやらどちらも心を通わせるつもりはないようだった。
 それはさながら腹の探り合いでもしているかのようで、両者の間には軽く緊迫感すら漂っている。
「あ、あの……」
 ただしレイナはそんな事をするつもりなどないのか、場の均衡を破るように声を上げていった。 その手は小さく挙げられているがわずかに震え、どこかおどおどとしているように見える。
「あら、何かしら?」
「い、いえ! 何でもないです……! すみません。本当に、何でも……。ないんですから……」
 次にツクハは老婆から視線を外すとそう問いかけるが、レイナはすぐに目を逸らしてしまう。 まだその口はもごもごと動いて何かを言いたげではあったが、真実に触れるのが余程怖かったのかもしれない。
 それから少し逡巡していたが結局は何も言えず、そのまま引き下がるしかなかった。
「そう……? なら、私は本当にこれで。お茶、ごちそうさまでした。それでは、失礼しますね……」
 ツクハはそんな様を不思議そうに眺めていたが、すぐに気を取り直すとそう言って頭を下げる。
 そしてその後には速やかに家を出て、来訪者のいなくなった家にはただ静寂だけが残された。
「……シン!」
 そうなるとレイナは居ても立っても居られず、いきなり叫ぶと家を飛び出していく。 どうやら余程シンの事が心配だったのか、その顔には強い焦りが浮かんでいる。
 もしも家の外にシンがいなくなっていた場合、レイナはどうすればいいのか自分では想像もつかないかのような慌てぶりだった。
 そのために急いで動かす足はもたつき、何度も転びそうになりながら懸命に家の外へと出ていく。
「……」
 そんなどたばたとした場にあって、老婆は一人だけ塞ぎ込んだような表情をしていた。 その口はきつく閉じられ、何かをする気力すらないかのように動きを止めてしまっている。
 表情も外の日差しとは正反対に暗くなっており、全身が諦めに近い感情に支配されているかのようだった。


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