第10話 風


 人里から離れたとある地に、一つの小高い山がそびえ立っていた。 軽く見た限りでは山自体には異変は見当たらず、これまで通りの悠然とした姿を維持している。
 ただし現在その周囲では、何故か不自然なまでに風の勢いが強まる状態となっていた。
 元々この辺りでは風龍の姿が度々目撃され、他の地域よりも風が荒れがちになるのが常となっている。
 だがその前提があったとしても、まるで台風でも来たかのような強さの風圧は明らかにおかしかった。
 しかもおかしな状況はそれだけに留まらず、山の中もどこか通常とは違っている。
 外の有り余る程の風量とは対照的に、一旦登り始めてしまえばそこではほとんど風が感じられなくなっていた。
 山に近づいたロウ達が吹き荒ぶ風に四苦八苦している間にも、山中だけは異様な程の静けさを保っている。
 しかしそれは台風の目の中と同じで、ここが異変の中心だという事の証明に他ならないのかもしれなかった。

 そして丁度その頃、山の中腹辺りの木々が生え揃っている場所には一人の青年の姿があった。
「……」
 青年はまだ十代の後半か、あるいは二十代の前半くらいに見える。 その頬の辺りには目立つ傷があり、中肉中背の健康的な体をしていた。
 さらに低く構えた腰の辺りには立派な刀も下げられ、その手は柄の辺りをきつく握り締めている。
 そんな青年のすぐ目の前には、周囲にいくらでもある木の中でも一際大きな古木が立っていた。
 辺りでは小鳥の鳴き声すら響かない静寂が保たれ、そんな状況で青年はじっと目を閉じたまま精神統一を図っている。
「ふぅぅっ……」
 やがてゆったりと息を吐いたかと思うと、流れるような動きをしながら刀を抜き放っていく。
 その様を見る限りでは、もしかしたら古木を刀で斬りつけようとしているのかもしれない。 だがどう考えても、細身の刀ではまともに太刀打ち出来そうにはなかった。
 それでも青年の気迫は一向に衰えず、鞘を投げ捨てると古木をきつく睨み付けている。
 辺りにある木々の間からは柔らかな光がさんさんと降り注ぎ、その時には静かな風が吹き抜けていった。
 そこは本当に穏やかな空気を保った場で、青年はそんな中で真剣に刀を構えていく。
「でやぁっ……!」
 そして上段に構えたまま古木に狙いをつけると、渾身の力を込めて刀を鋭く振り切っていった。
 ただし古木との間には依然として距離が開いたままで、刀はその先端すら届いていない。
 そのために失敗に終わるかと思われたが、次の瞬間にはいきなり刀の辺りに風が巻き起こる。
 次にそれは刀の軌跡に合わせるようにほとんど同じ形を作ると、振り抜いた刀の勢いに押されるように真っ直ぐに古木の方へ飛んでいった。
 その形を見るとまるで風の刃とも言えるそれは、直後には凄まじく滑らかに幹に食い込んでいく。
 そして抵抗などないかのように古木を一気に切断すると、風の刃はそのまま向こうへ飛んで掻き消えていった。
 一方で風の刃によって二つに裂かれた古木は、それから悲鳴じみた音を立てながら倒れていく。
 静けさで満ちていた辺りには大きな音や振動が響き渡り、砂埃や粉塵なども一気にその量を増していった。
「よし、もういいか」
 そんな中で青年は満足気な表情を浮かべつつ、刀を振り切った姿勢から元に戻っていく。
 そして目標が完全に倒れたのを確認すると、近くにあった鞘を拾い上げて刀を収めていった。
 よく見れば青年のすぐ側には、同じようにして倒されたと思われる何本もの木が倒れている。 そのどれもが太く堅そうな幹を持ち、人力では傷つけるのすらやっとのように思えてしまう。
 それでも青年にとっては労苦にはならないのか、今もたっぷりと余力を残してるように見えた。 恐らく同じ事を何度やらせても、青年は簡単にやってのけてしまうのだろう。
 この光景を見ていないものに説明した所で、大半の者は与太話だと思って信じないはずである。
 その一方で青年の胸の辺りには、しっかりとした裏付けをするかのように白く光を放つ紋様が浮かんでいた。
「さて……。これで注文を受けていた分は片付いたか。とは言え在庫も多くはないし、今日はもう少しやっておくか……」
 次に青年は額の部分を腕で拭いつつ、近くにある切り株に腰掛けていく。
 すでにその時には存在を誇示するように光っていた紋様も、すっかり明るさを失っていた。
「シンー! ねぇ、シンったらー」
 するとその直後、ふと少し距離を置いた方から元気な声が響いてくる。
 気付いた青年がそちらへ顔を向けると、そちらからは一人の少女が手を振りながら走って来ていた。
「はぁ、はぁ……。ふぅ……。もう、どこに行くかくら言っておいてよね。いつも場所が違うから、探し回らなきゃいけないじゃない……」
 そして少女はその場に到着するなり、息を切らせながら不満げに話しかけてくる。
「ん。何だ、レイナか。今、調子が出てきた所なんだから邪魔するなよ」
 しかしシンの方は恨めしげな声を、あまり気にしているようには見えない。 それよりも今日の成果の方が余程気になるのか、今は伐採した木を数えるのに夢中になっている。
「けほっ……。あら、随分なものの言い方じゃない。せっかく呼びに来てあげたっていうのに。今、あんたを訪ねてお客さんが来ているのよ。それも凄い美人が」
 一方でレイナはその反応が癪に障ったのか、そう言いながらさらに顔をしかめていた。
「何だと。俺に客? わざわざこんな山中に来るなんて、暇な奴もいたもんだな……」
 だが当のシンは不思議そうな顔をするばかりで、あまり真剣には応じていない。
「そうね。それにあんな美人、ここらじゃ滅多に見かけないわ。綺麗な装飾品もつけてたし……。きっとどこか、他所の国から来たんじゃないかしら」
「ふーん。まぁ俺の所に来たっていうなら、多分木の注文だろ。それじゃ、とりあえず会ってくるとするか。丁度、腹の方も空いてきた事だしな……」
 次にレイナがそれから思い出すように話していると、シンはそれに答えながらふと立ち上がっていく。
 そして辺りに置いていた手拭いなどを拾うと、荷物の片付けに入っていった。
「……それにしてもさ。こんな大きな木、あんた一人だけで一体どうやって切っているの? いっつも不思議に思っていたんだよね」
 一方でレイナは辺りに倒れている木々に気付いたようで、おもむろにすぐ側にある木を覗き込んでいく。 さらに木の切り口を指でつつきながら呟き、興味深そうな様子を隠さない。
 その様子から察するに、どうやらこの少女は紋様については何も知らないようだった。
「さぁな。別に何だっていいだろ? お前が気にする必要はねぇよ」
「まぁ、別に深く聞き出す気なんてないけれどさ……。とにかく、無理だけはしないでよね」
 シンも特に答えるつもりはないようで、それを聞いたレイナは少し寂しげに表情を曇らせる。
「あぁ、いちいち言われなくたって分かってるって。全く……。毎日毎日、同じ事ばっか言って飽きないのかね……。お前は俺の母ちゃんかっての」
 ただしシンはその視線から逃れるように顔を背け、乱暴に言い放つのみだった。
「何よ、せっかく人が心配してあげているのに……。前だって倒れた木に巻き込まれて、本当にひどい怪我をしたじゃない!」
 そうなるとレイナもむっとした様子で、きつく睨み付けると側へ詰め寄っていく。
「うるさいな、あれもすぐに治ったからいいだろ。わざわざ風の里から医者なんて呼び寄せて大事にしやがって。結局、無駄金を使っただけじゃねぇか」
 しかしシンも怯む事なく正面から迎え撃ち、呆れたように言い返していった。 その手は先程から休む事なく、それからも体の位置を移動させながらずっと動き続けている。
「なっ……! あんなにいっぱいの血を見れば、誰だってそうするわよ! 私達は家族なんだし、心配して何が悪いのっ!?」
 対するレイナはさらに感情的になり、手に力を込めながら思わず声を荒げていく。
「別に悪いとかじゃなくて、単に鬱陶しいんだよ。ほんの小さながきみたいに扱われて、良い気なんてすると思うか?」
 それとは逆にシンの方は冷めた反応をしており、その足元ではすでに荷物が纏め終わろうとしていた。
 もしかしたらレイナとの言い合いは、所詮は荷物を纏める片手間のものだったのかもしれない。 そのうんざりとした口調も、さっさと会話を終えたがっているようにも見える。
「そ、そんな言い方しなくてもいいでしょう……! 元はと言えば怪我をしたあんたが悪いのに……。もうっ、シンのばかっ!」
 だがレイナからすればむしろそれが頭にきて、怒り心頭となったのかもしれない。 感情の行き場をなくしたように手足をばたつかせると、大きな声で子供じみた罵倒を口にしていった。
「分かった、分かった。いつまでも一人ではしゃいでいないで、さっさと帰ろうぜ。客を待たせちゃ悪いし、今度は婆ちゃんから小言を言われかねないしな。ほら、行くぞ」
 一方でシンは諌めるように言って荷物を持ち上げると、手早くこの場から立ち去ろうとしている。
 やはり本気で喧嘩するつもりなど初めからなかったらしく、今は相手を気遣う素振りすら見えていた。
「う、うん……。何よ、もう……。いきなり、落ち着き払っちゃって……。これじゃ私が聞き分けのない子供みたいじゃない……」
 ただしレイナはまだ納得がいかないのか、不遜な顔をしたままぶつぶつと呟いている。
 それでもここに一人だけ残っても意味はないと分かっているのか、仕方なくシンの後をついていくように歩き出していった。
 やがて二人は少し先で横に並び立つと、そのままゆったりと帰宅の途についていく。
 外界では今も風が吹き荒れているのだろうが、少なくともここではほとんど関係ない。 少しの騒がしさはありつつも、ただ平穏な時間が緩やかに流れつつあった。


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