「ふふっ、そんなに怖がらないで。別にあなたに危害を加えるつもりなんてない。あなたはそうやって、ただじっとしているだけでいいの」
一方でツクハは武器を持ったまま微笑んですらおり、体では黒い紋様が未だに光っている。
するとそれに応じるようにして、足元からは形容し難いものが溢れ出していった。
水のような滑らかさを持つ黒いそれは、ツクハを中心にしながらさらに広がっていく。
終わる事なくゆっくりと現れる何かはまるで闇そのものであり、離れた場所にいるロウの足も次第に浸かっていった。
「……!」
その瞬間にロウの体には、かつて経験した事のない危機感が走っていく。
直後にそれから逃れるために下がろうとするが、妙に粘度があるためにやけに動き辛い。
そうしている内に足は完全に呑み込まれ、闇は部屋の床の隅々にまで広がりつつあった。
「さぁ、そこで待っていて。今、迎えに行ってあげるからね……」
だというのにツクハは落ち着いたままで、その次には闇に足を片方ずつ乗せていく。
すると何故か沈み込む事もなく、闇の上に浮かぶように体勢を保っていた。
「これは……! これも龍の力なのか……? 師匠の時のように、姉さんも操られているのか……!?」
対するロウは驚きと共に腰の辺りから霊剣を取り出すと、牽制するかのように光の刃を纏わせていく。
眩い光によって辺りに輝きが満ちていくと、暗い部屋の中は一気に明るく照らされていった。
だがあくまで本気で戦う気はないのか、手にはまるで力が込められていない。
「へぇ……。霊剣か。ふふっ……。随分と懐かしいものを持ち出してきたのね。でもそれがあった所で、何の脅威にもならないわ」
一方でツクハは全く動じる様子もなく、それどころか口元を楽しげに歪めていく。
その姿は先程までとは違い、まるで別人のようだった。
「どうやらわずかに龍の力を溜め込んでいるようだけれど……。現時点では龍と同化している私の方が強いのだから……」
そして次に大剣の先端を闇に沈み込ませると、それを引きずるようにして前へと進み出す。
床一面に広がる闇はツクハの足が着く度に、本当の水面のように波紋が浮かんでは消えていった。
さらにその動きは徐々に早くなりながら、黒い水のような闇の上を走って進むまでになっている。
「無意味な抵抗なんて、考えないでちょうだい……!」
やがて一定の距離まで近づいてきたツクハは、大剣を体ごと振り回すかのように動かしていった。
その刃先は闇をすくい上げるようにして空中に散らしつつ、前方にいるロウへと一気に襲いかかっていく。
「くっ!」
対するロウはやや斜めから斬り上げられた大剣を、霊剣を使って何とか逸らす事に成功する。
ただしその衝撃は凄まじかったのか、その後は体ごと吹き飛ばされそうになるのを耐えるのが精一杯のようだった。
「まだまだっ……!」
片やツクハは勢いを削ぐ事なく追撃に移っており、すでに大剣を大きく振り被っている。
そして次の瞬間にはそれを何の躊躇もなく、力の限りを込めて鋭く振り下ろしてきた。
「ぐぅっ……!」
ロウはそれをまたも霊剣で防御するだけで、反撃する素振りさえ見せていない。
再会した当初とはまるで違って攻撃的になったツクハと、戸惑いを未だに隠せないロウは対照的といえる程である。
それからもツクハは大剣で斬り続け、ロウはなおも霊剣で防御していく。
暗い部屋の中ではしばらくの間、同じ攻防が幾度となく繰り返されていった。
「俺は姉さんにずっと会いたかった……。会えなくても、せめて生きていてほしいと願っていた」
そんなロウの頭の中に去来するのは、優しかった昔の姉の姿である。
脳裏には屈託のない優しい笑顔が浮かぶが、それも大剣で斬りつけられる衝撃で消えていく。
それでも他に選択肢などなく、防戦一方のまま連続攻撃を受け続けるしかなかった。
「もちろん、できれば直に会いたかったけど……。でも、こんな再会は望んでなんていない……」
そして流れるように迫ってくるかなりの大きさの剣を、その都度に懸命に避けていく。
ツクハは自身より大きな剣をまるで重さを感じないかのように軽々と扱っているが、それも闇の紋様の力の影響なのかもしれなかった。
「ロウ、これ以上手をかけさせないでちょうだい。いい子だから、ね……」
その表情は時折憂いを帯びつつも、攻撃を止めようとする素振りさえ見せない。
穏やかな顔とはまるで真逆の激しい攻撃を、叩きつけるように続けていた。
「師匠だけじゃなく、姉さんとも戦いになるなんて。何でこんな事になっているんだ。何で俺は、姉さんと戦っているんだ……」
ロウはそれに対して、反撃するような事も一切しない。
ただ悲しそうな表情を浮かべながら、霊剣を防御のためだけに使っている。
「姉、さん……」
その場にはロウの持つ霊剣と、ツクハの振るう大剣がぶつかり続ける音がずっと響いていた。
「うーん……。誰も見つからないね……」
その頃、ロウやトウセイとはぐれて一人になってしまったセンカは不安そうに施設内を彷徨っていた。
「ふむ……。では、あの部屋はどうだ?」
光龍はその声を聞くと辺りを見回し、何かを見つけたように顔で指し示す。
センカがそちらに目を向けると、先には一つの部屋があった。
ただし部屋の扉は閉められ、中を窺い知る事は出来ない。
さらに中からは何の音も聞こえてこないために、それを見たセンカは少し不安げな反応を見せていた。
そのために部屋のすぐ前まで近づいても、そこから先は入るのを躊躇してしまう。
「そうだね、行ってみよう」
しかしこのまま突っ立ってる訳にもいかないので、軽く息を吐くと希望を込めて呟く。
そして意を決したように手を伸ばすも、扉には取っ手が見当たらずにどう開けたらいいものか分からない。
「本当に変な所。今まで見た事のないものばかりで困っちゃう……」
そのためにセンカは扉のすぐ前で立ち止まると、どうしたものか悩んでいる。
だが次の瞬間には何故かいきなり、扉は音もなく勝手に横に動いていった。
滑るようにして扉がなくなった後にはもう遮るものは存在せず、部屋の中へ楽に入れそうに思える。
「すいませーん……」
それからセンカは緊張したように前方の様子を窺いながらも、少しずつ部屋に入っていく。
そこでまず目に入ってきたのは、至る所に溢れる大量の本だった。
いくつか本棚が設置されてはいたが、それらには収まり切らずに床の上に何十冊も乱雑に積まれている。
さらに同じかあるいはそれ以上に多くの紙の束も見受けられ、思わずその光景に圧倒されてしまう。
センカはそのために先程まで感じていた緊張も忘れ、しばらく入口辺りで言葉を失っていた。
「誰ですか、入ってきたのは? そんな所にいないで、こちらに来たらどうです」
その時、部屋の奥の方から声が聞こえてくる。
何者かはこの部屋や、ひいては施設そのものの主なのかもしれない。
それくらい尊大に聞こえる声に対し、センカは部屋の中を見渡しつつ恐る恐る進んでいった。
「おや、何故あなた様がここに?」
やがて進んだ先にいたのはフドであり、椅子に座った状態で本を開いている。
その態度はどこか馴れ馴れしく、センカを知っているかのようだった。
「あなたは……? もしかして教団の方ですか?」
ただセンカは相手の事を見知らぬようで、怪訝そうに呟く。
それでもその予想は当たっているのか、フドはセンカと似た格好をしていた。
さらに部屋の中をよく見ると、龍に関するものがいくつも見受けられる。
そこには龍を題材にした置物や掛け軸など、様々なものが本や紙に紛れていた。
センカにとってそれらは見慣れたものであったのか、自然と視線もそちらに集中して向けられている。
「はい、そうですよ。よくいらっしゃいましたね。私はフドと申す者です。これまでは直にお会いする事は叶いませんでしたが、以後はお見知りおきを……」
次にフドは落ち着いた様子で微笑み、本を傍らに置く。
そして不意に立ち上がったかと思うと、恭しく頭を下げてきた。
フドはかなり年の離れているセンカに対して敬意を払い、目上の存在のように扱っている。
それは龍神教の中にある、独特な序列によるものなのかもしれなかった。
「は、はい……。よろしくお願いします。私はセンカです……!」
一方でそれを受けたセンカも、何故か慌てて頭を下げていく。
礼儀正しいのは気質なのかもしれないが、これではどちらが目上の存在なのか分からなかった。
「えぇ。存じておりますよ。光の巫女様。お姿を拝見出来て光栄です」
フドはそれから頭を上げると、センカを改めてじっくりと見つめてくる。
表情などは穏やかだったが、唯一その視線だけは鋭かった。
ただ探るような視線も、それを受ける当人はあまり気付いている様子はない。
「センカ、この者は?」
「多分、本部から派遣された教団員の人なんだと思う。ここで何をしているのかまでは分からないけれど……」
次にすぐ背後に現れた光龍に対し、振り返ったセンカは普通に答えていく。
それはセンカからすればごく当たり前の行動であったが、他の者からすればかなり奇妙だった。
龍とは普通の人間には見えない存在であり、傍から見れば虚空に向けて話しかけているようにしか見えない。
「ほぅ、光龍とは。成程、そうですか……」
フドはそれを見ながら目を細め、自然と笑みをこぼしていた。
しかしそれは滑稽に思って笑うようなものではなく、目の奥には鈍い光が宿っていた。
「あの、ところでここは一体どういう所なのですか? ここにあるのはどれもこれまで見た事ないものばかりですが、都会だと当たり前にあったりするのでしょうか……?」
「いえいえ、どこの国へ行こうとここにあるようなものはまず見られませんよ。そういう意味ではこの施設は非常に貴重であり、秘匿すべきものでもあります」
そして不思議そうなセンカに対し、フドは答えながら椅子に座り込んでいく。
「だからこそここにあるものや、それを使って成す私の使命も教団のほとんどの人間には知らせていないのですが……。まぁ、巫女様になら教えて差し上げてもいいでしょう」
禿げた頭を何度も撫でながら考え込むような様を見せているが、期限は良いのか顔には隠し切れない笑みが満ちている。
「え? あの、それは……」
一方でセンカは目を瞬かせながら顔を傾げ、ただ困惑するばかりでしかないようだった。
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