道具 8



「さぁ、な……。それはどうだか……。正直、自分でもよく分からん……」
 対する主人は目を閉じ、穏やかな顔つきには微笑みすら浮かべている。
 眼前に広がる圧倒的なまでの力を前に、怯える風でも言い訳を並べ立てる訳でもない。
「な、に……?」
 堂々としているようにすら見えるその様に、訝しむ妖怪の足も自然と遅くなっていった。
「だが……。ふと、思い出してしまったんだ。お前とこれまで過ごしてきた日々を……。まだ最初の頃は人としての暮らしや振る舞いに慣れず、いつも悪戦苦闘していたな」
 一方で主人はわずかに瞼を開くと、焦点の定まらぬ目で虚空をじっと見つめていく。
「皿を割り、料理をこぼし……。物だっていくつ壊したかも分からん。初めの内はその度にひどく恐縮したり、泣きながら謝ったりしていた。それでも時が経つ内……」
「……」
 どこか遠い所を眺めるような主人の姿を、間近までやって来た妖怪が見下ろしている。
「段々と人との間に馴染むようになって……。性格もどんどん生意気になって、文句や愚痴だって増えていって……。だがそれでも、それはとても好ましいものでもあった」
 つい少し前と違って今度は見上げる側になった主人だが、あくまでその目は何者にも向けられていない。
 ずっとこことは違うどこかを眺め、そこにいる誰かを見つめているかのようだった。
「……」
 その頃の妖怪にすでに激しい感情の高ぶりはなく、あれ程強まっていた力も今は平静を保ちつつある。
「元はお前を助けたのも単なる同情だった。血塗れで倒れたお前の姿が、あいつと重なり……。どうしても見捨てる気になれなかった。本来なら妖怪と敵対する身なのに、だ」
 主人はそれからも弱々しく息を吐きながらも、喋る事を止めようとしない。
 妖怪はその声を耳にしながら、口を真一文字に結んだままそっと目を閉じる。 あくまで気を張ったままでも、その脳裏にはかつての光景を思い浮かべようとしているかのようだった。
「それでも伝説の大妖怪を手元に置くのもまた一興かと、自分や周囲を納得させて……。結局の所、お前は物珍しい道具。平時には、それぐらいにしか思っていなかった」
「……!」
 やがて主人は気楽に表情を崩す一方、妖怪は手を握り締めながらほんの少しだけ体を震わせる。
「だがそれからも着々と日々を積み重ね……。お前と過ごす度、思い始めた。今のお前の姿は偽りのもの。俺との契約にがんじがらめに捕らわれた、歪な状態なのではないか」
 それでも主人に気付く様子はなく、その体からは対照的なくらい力が抜け切っていた。
「持ち得る力や意識も本来とはまるで違う。過去の記憶や思い出もなく、できるのは誰かの道具として生きるばかり。自分のために生きるという事すら叶えられない」
 さらに意識は朦朧としながらもなお、熱に浮かされたように口を動かし続ける。
「やはりそれは、とてもおかしなものだと思うようになって……。不要な束縛を解いた、どこまでも自由な姿。あるべき自分を完全に取り戻した時……」
 それはどうしても伝えたい事があるかのようで、段々とその視界は上向くようになっていく。
「一体それは、どういう風に見えるのか。ある時からふと、そういう思いがよぎるようになって……。あぁ、そうだ。俺はきっと、お前に……。幸せになってほしかったんだな」
 そして見上げた先に目的のものを見つけたかのように、やがてぴたりと動きを止める。 その顔は日光を受けてとても晴れ晴れとしており、それまで見られなかった穏やかさで満たされていた。
「……!」
 妖怪はその姿を見つめたまま目を見張り、気付けば握り締めていた手もゆっくりと開かれていく。
「本当ならもっと、幸せになれたあいつの代わりに……。俺は誰か、ほんの一人でも救えたのだと思いたかった。これは単に独りよがりな、願望だったのかもしれん……」
 一方で主人はまた遠くを見つめるような目をすると、眠るように目を閉じる。
 その脳裏にはかつてどこかで見たのであろう、一人の少女の後ろ姿があった。
「だから、後はお前の好きにするが良い。ごほっ、ごほっ……。げほっ……。ごっ、ごほっ……!」
 ただそれからすぐに主人は辛そうに咳き込むと、重苦しさを増したその音を何度も何度も響かせていく。
「当主様……! どうか、しっかりなさってください……!」
 見ればその口に当てた手元は赤く染まっており、それを見た老人は思わず血相を変えていった。
「ぐっ、ごほっ……。はぁ……。さ、さぁ……。すでに、お前は自由なんだ。もう、どこへなりと行くがいい……」
 だが主人は構う事なく、人差し指を伸ばした手を震わせながら持ち上げていく。 本人は喋るのも辛そうにしながらも、今も懸命に指の先端を外へ向けている。
「どういう事だ……? 幾ら私の力を受けようと、あの時は確かに札で防御していたはず。それなら、ここまで弱るという事はないはずなのに……」
 それでも妖怪にはその場から動く素振りすらなく、少し前までの威勢のいい調子などは完全に消え失せていた。
 所在なさげに揺れる瞳はずっと主人の方へ向けられ、体はふらつくように後退すらしてしまう。
「当主様はあなたとの契約のため、これまでかなり無理を重ねていたのです。ただでさえ普段の仕事もあるのに、私がいくら諫言しても聞き入れてはもらえず……」
 老人はそんな相手の動揺を見透かしたように、主人の手を取り下げながら口を開く。
「とっくに体はぼろぼろになっても、まだ強がって……。強い力を発揮するが故に反動も大きい、ご先祖様の札まで持ち出して……。こんな……。こうなるまで……」
 悲しげな瞳は眼下の相手に向けられ、その先では主人が眠るように目を閉じていた。
「……」
 まだ呼吸はしているために生きているはずだが、深い疲労や負傷のためか体は凝り固まったように動かない。
「そ、そんなはずはない。だって……。いつ見ても平然としていて、仏頂面で。私に対して、不機嫌そうに指図ばかりしてきて。いつも口の減らない、生意気な人間で……」
「あなたに……。いえ、誰に対しても弱い部分を見せたくはなかったのでしょうね。当主様はずっと親しい方を失ってばかりで、他者との距離を常に測りかねていました」
 一方でひどく狼狽えたように首を左右に振る妖怪に対し、老人はやや顔をしかめながら手に力を込めていく。
「特にあなたに対しては、それが顕著だったように思います。今の関係を不用意に変えれば、また何かを失うかもしれない。だから……。結局はただの痩せ我慢なんですよ……」
 その手は主人の腕に寄り添うように添えられていたが、やはり表情からは慙愧の念が消える事はなかった。
「あ、うぅ……。そんな……。そんな、事って……」
 妖怪はその様や主人の顔を交互に見つめ、何か言おうと口を動かしている。 それでもまともな言葉が発せられる事はなく、強い動揺を示すようにただふらついていた。
「……!」
 しかし次の瞬間、その体は何の前兆もなく光り出していく。
 その淡い輝きは頭から足の爪先から頭頂部にまで及び、それはどことなく見覚えのあるものでもあった。
 かつて妖怪が主人と契約を交わした時と景色や時間はやや異なるが、同じ眩さや感覚がそれからも辺りに広がり続ける。
「これは……。そうか。保護と戒めの両方が……。今にも綻び、消え失せて……」
 やがて光は妖怪の胸元に収束していくと、その部分には一枚の札が浮かび上がっていった。
 どうやらそれが発光現象の元になっていたようだが、程なくして形を崩すように消滅していく。
「くっ……。うっ、うぁ……」
 そうなるとあれ程あった輝きも一気になくなり、同時に妖怪もその場にへたり込んでいった。
「がっ……。ぐはっ……!」
 するとその直後、妖怪の体の至る所が裂けながら真っ赤な鮮血を噴き出していく。
「ぐっ……。う、うぁぁっ……!」
 それは次第に緩やかになるどころか、むしろ勢いを増すようにしてさらにひどくなっていった。
 あまりの傷の深さはただ事ではなく、その様はかつて庭に倒れ込んでいた時の状態と酷似している。
 どうやら主人との契約によって一時的に堰き止められていた傷が、繋がりを断たれた事によって元に戻ったらしい。
 あの時は瀕死の状態から完全に持ち直していたが、今はその逆を辿っている。
「く、ぐぅぅっ……。あ、ぁぁぁっ……!」
 妖怪は苦悶しながら地面に平伏し、それでも痛みに耐えながら目を見開いていった。 思わず手を強く握り締めると、指の間からは土が滲み出るようにこぼれ落ちていく。
「そう……。そうだった。私は死に至る程の傷と引き換えに、貴方との契約を……。例え道具として扱われようとも、生き抜きたいと切に願ったから……」
 さらに息も絶え絶えながら、霞む目を懸命にある方へ向けようとしていった。
 その体はすでにまともに動かせない程であるが、ありったけの力を振り絞ると這いずるようにして動き出す。
 どれだけの痛みや血にもめげる事なく、いくら進むのがほんの少しずつでも決して諦める事はなかった。
「はぁ、はぁ……。ぐっ、あ……」
 やがて目的の場所までやって来ると、上半身を持ち上げて眼前の相手を覗き込む。
「どうした。何でまだ、残っている……。今のお前ならば、すでにかつての力を取り戻しているはず……。それくらいの傷……。すぐに治す事も容易いだろう」
 対する主人は自らの顔に差す影に気付いたかのように、薄っすらと瞳を開いていく。
 契約が切れた事で体にかかる負担が減ったためか、その様子は先程までより多少は楽に見える。
 それでも未だ予断は許さず、気を抜けばすぐにでもまた意識を失いかねなかった。
「だから……。いつまでもここにいないで、早くどこかへ行ってしまえ。もうお前にはここでしたい事も、するべき事も……。何も残ってはいないだろう……」
「いいえ。あります。私は……。私よりもなお、治したいものが……。いえ……。是非とも元に戻って頂きたい方が、ここにいるんです」
 そんな状態でもなお意識を懸命に保つ相手の事を、妖怪はただ真摯に見つめ続けている。 さらに自分の方がよりひどい傷を負っているにも関わらず、弱々しく首を振ると安らかな笑みすら浮かべていく。
「そう……。この、私自身の手で……。治して差し上げたい方が……!」
 そして上げた手を主人の方へかざすと、そこに力が集まりながら激しい光を放ち出す。 その時に浮かべた決死の表情や力の勢いからすると、今出せる力の全てを振り絞ろうとしているかのようだった。
「……! こ、れは……」
 主人は初めの内はそちらをただぼんやりと見つめていたが、やがて驚いたように目を見開く。 その顔色はつい直前までと比べて目に見えてよくなり、温かみすら感じる光によって体は急速に癒されているらしい。
 体に常に付き纏っていた痛みもあっという間に引くと、乱れた呼吸も治まっていつもの調子を取り戻しつつあった。


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