道具 7



「やはり記憶が戻ったと言っても、あくまでそれは完全にという意味ではなさそうだな。全くお前はしっかりしているようで、どこか抜けているというか……」
 主人はそれを見てあからさまに呆れた様子であるが、そこまで暗く思い詰めてはいない。 むしろ何かを思い出すように目を細めると、口元を若干緩ませていった。
「ぐっ、ぐぅっ……。あぁっ……!」
 一方で妖怪はさらに妖力を手に込めると、ようやく札を剥がし切る。 それでもかなり乱暴なやり方だったのか、その時に走った痛みに思わず顔をしかめてしまう。
 無理に札を排除したために腕には痛々しい後も残ってしまうが、とりあえずは自由に動ける状態を取り戻せた。
「だが……。それも、これまでだ」
「く……。さぁ、まだまだこれからだ。……!?」
 そして改めて前方へ焦点を合わせようとすると、その先にあったものを見て体が硬直する。
 目と鼻の先にあったのはすでに投げつけられていた第二の札であり、思考が鈍った状態ではうまく避ける事も難しい。
「くぁぁぁっ……!」
 己の失策に悔いる暇もなく、直後に札が命中すると先程のようにひどく苦悶した声を上げていった。
 しかも札はそれだけに終わらず、主人は距離を詰めながら何枚も続けて投げてくる。
 そのどれもが同じ効力を持っているのか、妖怪の体に貼り付くとその数だけ新たな苦痛をもたらしていった。
「ぐ、うぅぅ……。あぁ、あぁぁああ!」
 妖怪はそのせいで地面に倒れ込むと、そこを転げ回りながらもがいていく。 痛々しい様は目を背けたくなり、その声は耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる程だった。
「……!」
 実際に老人は抗えず、思わず視線を逸らして顔をしかめてしまう。
「どうした、大丈夫か? たかが人間ごときに大分苦戦しているようじゃないか」
 一方で主人の様子に変わりはなく、相手を見下ろす様は虫けらでも眺めるかのように虚ろだった。 無関心な面持ちや容赦のない行動には、それまでなかった残酷な雰囲気が伴われている。
「くっ……。ふっ、はぁ……。うあぁぁぁっ……!」
 一方で妖怪は息を荒げたまま、自分に差す影の方へ視線を向けていく。 さらに今も懸命に札を剥がそうと、血に塗れてきた手に懸命に力を込めている。
 その作業はなかなかうまくいかないが、それでもまだ気力は充分に保たれているようだった。
「俺の家系は古くから陰陽師の流れを組んでいるらしくてな。科学が隆盛する今の時代となっては、培ってきたものが役に立つ機会もほとんど失われているが……」
 対する主人はその様にたじろぐ様子もなく、悠然とした立ち姿を保っている。
「それでも一つの方面に特化した知識や技術……。それらはまだ、絶える事なく受け得継がれている。これもその一種だ。本来は乱発するものでもないんだが、まぁ仕方ない」
 ただし顔色はほとんど変わらぬまま、発する声にも抑揚がないままだった。 そして懐をまさぐって取り出した何枚もの札を手にすると、それを見せつけるように揺らしている。
「ちぃっ、これは……。私の力だけでなく、体まで含めた存在自体に干渉するもの……。このままではまともに動く事もできず……。惨めに、地に……。ずっと、伏して……」
 それを見上げる妖怪は恨めしそうな顔のまま、歯を食い縛りながら体勢を整えようとしていった。
「まさか、たかが人間一人に……。赤子の手を軽く捻るように、倒されるなど……。あってはならない。例え、どのようなものを持ち出されようと……」
 だが幾ら体に力を込めようと、体はぴくりとも動かない。 それはまるで重い石に上から押さえ付けられているかのようで、わずかに身をよじるのが精一杯だった。
「このまま終わってしまうなど、あってたまるものか……! そうでなければ、私は……。何のために、今日まで無様に生き長らえてきたというのか……!」
 妖怪はさらに気合と意思を込めていくが、体に貼り付いた札はそれに反応するように光り出す。
 複雑な記号が組み合わさったような部分からは、それぞれ色の違う光が発せられながら交わり合っていく。
 それは妖怪を縛り付けるように伸び、地面の上に奇妙な陣のようなものさえ形成していった。
 そうして相手を完全に封じ込めているからこそ、今も主人は相手を冷静に見下ろしているのかもしれない。
 そして上下に分かたれた両者の視線は、それからも異なる反応のまま交差していく。
 この状況は単に力の大小ではなく、相性や特性といった変則的な要素が絡んだ結果なのかもしれない。
「っ……。ふぅっ……!」
 だとしても見下していた人間にこうまで圧倒されている事実に変わりはなく、それからも妖怪は身動きが取れぬままでも憤慨した態度を崩さなかった。
「さて……。もう勝負も決した事だし、そろそろ終わらせるとするか。こっちも暇じゃないんでな」
 一方で主人は札を一枚だけ指に挟むと、無表情な顔の前に持ってくる。
 それは先程まで使われていたものと違い、描かれている文字や紋様もどこか異なるようだった。 所々に使われる色味も禍々しく、見ているだけで不穏な気持ちにさえなってくる。
「では、お別れだ」
 しかし主人は何の気負いも感慨もなく、ただ冷静に札を投げつけようと腕を振り被っていく。
「まだ……。あと、少しだというのに……!」
 妖怪はその後に訪れる衝撃や激痛を想像すると、歯を食い縛るように顔を険しくしていった。
「……?」
 だがいくら身を固くして待ち構えても、自身の体には何の変化も起こらない。
 恐る恐る前方へ目を向けると、そこでは主人が先程までの体勢のまま固まっていた。
「……」
 それからもまるで時が止まったかのように動かず、じっと見下ろしたままでいる。 表情などにも変化はなく、何かを深く考え込んでいるかのようだった。
 ただしそれも時間にして数秒で、それからすぐにでも動き出そうとする。
「遅いわ……。この、愚か者めが……!」
 だがそれよりさらに早く動いていたのは妖怪で、直後には全身が膨れ上がったかのような錯覚すら覚える程に変容していった。
 どうやら主人が意識を逸らした隙に力を溜め込んでいたのか、辺りには一瞬で莫大な力が満ちていく。
「っ……!」
 それは自身を束縛していた陣を札ごと吹き飛ばすのに充分で、解き放たれた妖怪は素早く地面から跳び退いていった。
「ははっ……! やった、やってやった……! それ見た事か。肝心な所でよそ見をするなど、らしくない……!」
 そしてやや離れた位置に着地すると、獣のように四肢を突き立てて勇ましい表情を見せつけていく。
「くっ……。確かに、な……。俺とした事が、どうかしていた……」
 一方で主人は爆発的な妖力を防ぐと、そこから距離を取ろうと後ずさりしている所だった。
「待て、どこに行く気だ。うろちょろしていないで、そこにじっとしていなっ……!」
 しかし妖怪が見逃すはずもなく、手に唸るようにして一気に力を集めていく。 その速度も規模もそれまでの比ではなく、先程までとは質自体が変わったかのようだった。
「勝負はまだまだ……。これからなのだからっ……!」
 やがてできあがったのも輝きを放つ球体で、妖怪はそれをやけにあっさりと投げつけていく。
 それはつい直前の力の解放と違い、しっかりと練られた力は美しささえ漂わせながら真っ直ぐに標的へ向かっていった。
「……! ぐっ……。ぐあぁぁぁああ……!」
 主人は何故かそれを見てもすぐには避けようとせず、やや間を置いてから動き出す。
 そして防御のために札を使おうとするが、そのすぐ後にやって来た妖力の玉をそれまでのように防ぐ事は叶わなかった。
 妖力の玉は薄い膜のようなものにぶつかると、凄まじい勢いで破裂するようにして辺りに衝撃波を撒き散らしていく。
 間近からそれを食らった主人は車に吹き飛ばされたかのように、勢いよく地面を転がっていく。
「がっは……。ぐ、うぁ……」
 少し離れた位置でようやく止まったが、全身に擦り傷を負ってかなりの痛みに顔をしかめていた。
 本来ならもっと重傷を負ってもおかしくない程だったが、主人はうずくまりながらも懸命に呼吸を整えようとしている。
「ふむ……。これは……。ようやく力が体に馴染んできたか。だが、まだまだ……。あの時の私ならこの何倍も、何十倍ですら……」
 一方で妖怪は自身の手をじっと見つめたまま、無防備にその場に立ち尽くしていた。 それでもなお力は高まり続けているのか、妖力は全身だけでなく周囲にまで妖しい輝きを放っている。
 すでに以前までとかけ離れた姿からは、相手を気遣う様子などは全く見られなくなっていた。
「ぐぐっ、がはっ……。ぁ……。はぁ、はぁ……」
 主人は今もまだ咳き込んでいる状態が続いているが、胸の辺りにずっと手を当てている。
 よく見ればその部分はぼんやりと光り、手の内には見慣れぬ札が一枚あった。
「はぁ、ふぅ……。ふっ、はぁ……」
 それはこれまでに使っていた札と違い、色の違う発光が強まる度に少しずつ主人の顔色は楽になっていく。
 そして札から光が消えて脆くも崩れ去っていくと、ようやく主人も平静を取り戻したようだった。
「う、くっ……。がっ、あっ……」
 それでも受けた傷の完治とまではいかず、内臓や骨などに未だに影響が見られるらしい。
 体勢を立て直そうとしても立ち上がる事すらままならず、その場に膝をついたまま手足を震わせていた。
「と……。当主様! しっかりなさってください……! こ、こんな所で万が一にも倒れられては……。亡き旦那様や奥様に、合わせる顔がありませんよ……!」
 そこへ老人がひどく狼狽えた様子で現れ、主人の体を支えると怪我の具合などを探ろうとしていく。
 妖怪の力などは間近で見ていたであろうに、その行動には一切の躊躇が見られなかった。
「ふむ……。情けない。実に浅ましい姿だ。多少の力を手に入れたくらいで大はしゃぎして、結局は地力の差を見せつけられるだけに終わり……。これで満足か?」
 冷めた目でそれを眺める妖怪は、一足先に呼吸を整えて落ち着き払っている。 すでに札の影響などはまるで見られず、圧倒的な力は周囲の景色さえ歪めつつあるようだった。
「あなたは……。どうして、このような事をしてまで……。当主様のお気持ちも考えず……」
「気持ち? そんなものがあるなら教えてほしいものだ。どうしてあの瞬間、お前は躊躇った? あのまま力を放てば、私を殺す事さえできただろうに……」
 老人はそれでも恐れを抱かず、鋭く睨み付けてくる妖怪に少しも引かない。
「お前は……。お前ごとき、人間が……。私を憐れんだのか? 遥かに格下の、虫けらにも等しい惰弱な生物ごときが……!」
 一方で妖怪もさらに表情を険しくすると、前傾姿勢のまま詰め寄ってくる。 それは余程の屈辱だったのか、これまでにない激昂は全てを寄せ付けまいとしているかのようだった。


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