継がれるもの 8



 それでもふと周りを見渡すと、すぐそこには僧が落としたと思われる杖が目に付く。
 少年は何を思ったのか、おもむろにそちらへ近づくと杖を拾い上げる。
 僧が身を守るため、そして敵を倒すために使った杖は全体がひどく傷ついていた。
 それをじっと眺めているとふと、少年の脳裏には僧が語った言葉が次々と思い出されていく。
 最後の最後まで自分よりも相手を思いやり、なおかつどこまでも信じ切ってくれた人が確かに存在していた。
 その事実は半ば朽ちかけていた少年の体に、徐々に力を取り戻させていったらしい。
 少年は杖を地面に突き刺すと、適当な場所を見つけてそこに人が入れるくらいの穴を掘っていく。
 玉のような汗を垂らしながらも黙々と働く姿は真剣そのもので、腑抜けた調子など何処かへ吹き飛んでしまったかのようだった。

 やがて僧を丁寧に埋葬すると荷物を整理し、できあがった墓に別れを告げてから歩き出す。
 杖を手に歩く姿には活力が満ち、体の震えや虚ろな感情などもとっくに消え失せている。
 地面に残る足跡もどんどん伸びて、どこまでも途切れずに一直線に続いていた。
 それでも最後に少年は一度だけ振り返ると、名残惜しそうに墓を見つめてから再び歩を進める。
 次の瞬間にはそんな少年を後押しするかのように、一際強い風が前触れもなくただ颯爽と吹き抜けていった。
 それを感じる少年は密かに口元を緩ませ、フードをどけて空を見上げていく。 眩しい日光に晒された表情は前途洋々としており、疲れや嫌気などはほんの些細も浮かんではいなかった。

 遥か上空では太陽が唯一の宝石のように光り輝き、地上にあるあまねく全てを今も熱く照らしている。
「あぁ、そこに居られたのですか」
 その真下に伸びる街道では、一人の幼い少年が勢いよく駆けていた。 ずっと探していた何かを見つけたのか、逸る気持ちで足は少しもつれかかっている。
「遅れてすみません……。いえ、少し……。ほんの少しですが、子育てに手こずりまして……。でも、それもようやく終わりましたよ」
 しかし何とか転ばずに済むと、無事にその先にいる誰かの目前まで辿り着く。 息を切らせた状態でも顔は変わらず嬉しそうで、大人びた口調と裏腹に子供らしい純粋さも残している。
 一方で大木に寄りかかり、少年を待つように佇んでいたのは壮年の男だった。 深いフードを被った顔は逆光で見えずらいが、髭に隠れた口元は確かに緩んでいるのが分かる。
 やがて嬉々とした声が一段落すると、今度は男の方からいくつか質問をしていった。
「はい。あの子はとても良い子ですよ。私には正直、勿体ない程で……。口は少し悪いのですが、根はとても正直で心の優しい子です」
 すると少年は途端に目を輝かせ、心の底から楽しそうに答えていく。
 対する男は黙ったまま何度となく頷き、やがて木から身を起こすと少年へ向けて手を差し出していった。
「えぇ、そうですね。後は彼を……。そして今はまだ出会わぬ彼等を信じましょう。そして私達は……。あの時にはできなかった、気ままな旅でも始めましょうか」
 少年は眼前にある大きな手をじっと見返した後、それをゆっくりと握り返す。
「あなたとどこかへ出かけられるなんて、本当に久しぶりですよね。お義父さん……」
 そして男の方を見上げると、我慢できないと言わんばかりに一人で前に進み出す。 その顔や仕草には浮かれた気持ちが表れているが、それ以上に懐かしさや感慨深さといったものが込み上げているらしい。
 男も同様だったのか、最後により深く頷くと前へと向けて一歩を踏み出していった。
 手を繋いだ二人は人気のない、どこまでも延々と続く街道をひたすら進み続ける。
 辺りではたわわに実った麦が風に吹かれて優しい音を奏で、黄金色に染まる景色はこれからも決して変わりようがないと思える程だった。

 あれからいくつもの季節が過ぎ去り、かつて奴隷だった少年は幼さの残った姿をなくしていた。
 僧を失った後も一人で生き延び、すでに立派な成長を遂げて青年となっている。
 その姿はどことなくかつての僧にそっくりで、特に後ろ姿などは本当に見分けがつかなかった。
 そしてその選んだ行動までも似通っており、今は孤児の男の子を引き取って共に旅を続けている。
 僧に倣うように自分がしてきた約束事を繰り返すのも変わらず、二人はそうしながら長い道のりを共に歩んでいった。

 やがて二人はとある中規模の町に辿り着くと、市場の一角にある屋台で食事をする。
 時刻は昼真っ只中であり、周りは行き交う大勢の人でとても賑わっていた。
「どうした。まだ残っているぞ」
 そんな中で青年の表情はあまり優れず、それどころかやや不機嫌にも見える。 すでに目の前にある皿は空となり、乗っていたと思われる料理は綺麗に平らげられていた。
 だがまだ席を立つ様子はなく、今もすぐ隣にいる人物へと視線を向けていく。
「でも……」
 そこにいるのはまだ幼い男の子で、目を潤ませながらじっと見つめ返してくる。 口から発せられる声も周囲の雑多な音に比べれば、本当に消え入るように微かだった。
「いや……。そんな目で見ても駄目だ。この前に約束しただろう。好き嫌いはしないと」
 対する青年は縋るような目付きを振り払うように、男の子の目の前の皿を指差す。
 その上には見事に選り分けられた野菜だけが残り、それ以外の大部分は白くなっている皿の上ではっきりと存在を主張しているかのようだった。
「は、はい……。うぅ、あむっ……」
 男の子はそんな緑の固まりを恨めしそうに見つめていたが、やがて意を決すると箸を伸ばしていく。
「よし、いい子だ」
 青年もそれを見るとようやく満足したのか、深く頷くと飲み物を口にしていった。
「あの……。えっと……」
 それから野菜を頬張りつつ、男の子はすぐ横を盗み見るように密やかに目を向けていく。 年の割には利発そうではあるが、どうやら同じくらい気弱そうな子であるらしい。
 おどおどとして相手の様子をひどく気にするような態度は、かつての少年のものとは真逆に思えて仕方なかった。
「どうした?」
「あなたも私くらい小さかった頃は、先程のような約束事を……。どなたかと、されて……。いたのですか?」
 次に青年が茶碗越しに不思議そうな顔を傾けると、男の子はわずかに目を逸らしながらも言葉を続ける。
「あぁ。それでも俺の時はもっと厳しかったんだぞ。お前の何倍も約束をさせられて、その上で小言や説教を一日中されていたんだ。全く、気の休まる暇もなかったくらいだ」
 するとこの際だからかと思ったのか、青年は鬱憤を晴らすかのように勢いをつけて答えていった。 ただしどこか清々しい顔つきからは、そこまで不満や苛立ちを抱えているようには思えない。
「へ、へぇ……。意外ですね。でもそれは一体……。どなたと交わしていたのです?」
「あぁ、そうか。まだお前には詳しく話していなかったか。俺がいくつも約束を交わしていた人。それは……。俺の一番尊敬している人……。俺の義父さ」
 男の子がいつにない饒舌さに目を丸くしていると、青年はふと目を伏せて沈んだ表情を浮かべていく。 屋台の屋根の下は日陰になっており、その顔は賑やかな辺りにあってより暗さを際立たせているかのようだった。 
「……」
 男の子はその横顔を見ていると思わず手を止め、見入るように黙り込んでしまう。
「あれからいくつもの歳月を経て……。結局、俺はあんたみたいになれたのかな。いや、まだ到底無理か。俺なんかがいくら逆立ちした所であんたの足元にも及ぶはずがない」
 青年はそのまま茶を時折口にしつつ、誰かに話しかけるような独り言を続けていった。
「それでも、俺は……。あんたが成そうとしていた事を、少しでも進められればと……。俺が無理でも、その後に続く者達の助けにでもなればと……」
 途中で眺めた茶碗の中の水面に映るのは、かつてより確実に成長を果たした自分の顔である。
 しかし青年がその眼で見ているのは、その脳裏に浮かんでいるのはここにはいない誰かの姿のようだった。
「そう……。俺は決めたんだ。あんたの後を継いで、あの暗号を解いてみようと。先人達が連綿と紡いできた数多の祈りや願い。それを絶やさず、活かしていくためには……」
 青年はそれから広げた自分の手を見下ろし、何も掴んでいないのに何かを握るように力を込めていく。 それは僧が最期を迎えようとしていた時、何も握り返す事ができずにいた手に他ならなかった。
「どうすればいいのか、何が必要なのか。全ては未だ手探りでしかないが。それでも。いつかはきっと、一つの定まった形を見出してみせる。そう、あの時に誓ったんだ」
 その手をきつく固めるように握り締めると、青年は最後に目を見開く。 その目に映る輝きは日陰の中にあっても、それに負けない程にやけに強く輝いて見えた。
 男の子はその様を見終えると、今までの遅れを取り戻すかのように次々に野菜を平らげていく。 迷いや躊躇の一切ない食べっぷりは、青年の言葉を直に活力に換えているかのようでもあった。
「あの……。全部、食べ終わりました。そろそろ出発しませんか?」
 やがてまだ口をもごもごとさせつつも、口の辺りを手で覆いながら相手の様子を窺う。
「そうか。そうだな……。そうしたい所だが、まだ駄目だ。旅を再開する前に、しなければならない事がある」
 対する青年は少し考え込んだ後、真剣な表情を浮かべると男の子の方へ向き直っていく。
「え? それは……。一体、何なんですか?」
 すると思わぬ反応に驚いたのか、男の子は緊張した様子で体を強張らせていた。
「なぁに、簡単さ。これからいくつか、約束事をするだけだからな……」
 対する青年はそれを落ち着かせるように穏やかな笑みを浮かべると、相手の目をじっと見据えながら何かを語り始める。
 それは周囲の喧騒と比べるとほんの些細なもので、特に注目を浴びるような事もない。
 だがその時間は両者にとって、これからの生涯で忘れ得ぬとても大切な時間となったのは間違いないようだった。


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