隣の世界 2



 すでに空も段々と黒さを増しつつあるというのに、どの部屋にも微かな明かりすらつけられていない。
 周りでは近所の家の明かりがぽつぽつとつき始めているが、Sの家だけが取り残されたように暗いままとなっている。
 白い壁や鮮やかな色のカーテンなど、その家の全ては次第に濃さを増す暗闇に同化しながら呑み込まれていくかのようだった。
「……」
 もしかしたらSは寝ているだけで、明かりもそのせいでつけていないのかもしれない。
 それでも何故かその瞬間、俺の背筋を薄ら寒い感覚が勢いよく走っていった。
 その後にもう何度かインターホンを押してみるが、相変わらず応答はない。
 これ以上待っても迷惑をかけるだけかもしれないし、その場は諦めると踵を返す。
 明日は丁度休みの日だし、明るくなってから出直せばいい。
 ちょっと前まであんなに元気だったんだし、病気だってそんなに重いものじゃないはずだ。
 むしろSの事だから病気を口実に学校を休んで、好きなオカルトや怪談に時間も忘れてのめり込んでいるのかもしれない。
 いや、やはりというかほぼ確実にそうなのだろう。
 だからこそSはメールや電話にも応じず、明かりをつけるのも忘れて俺の訪問にも気付かなかったに違いない。
 半ば自分を強引に納得させると、俺は少し気が楽になって帰途へとつく。
 普段はさして気にも留めていないが、何故かその時だけは辺りにやけに人気がなかったのを覚えている。
 そしてこれも気のせいなのだろうが帰る途中に誰かの視線を感じ、その度に振り返る事が何度もあった。
 しかしそうした所で周りには人っ子一人おらず、静まり返った無音の世界が広がるばかりとなっている。
 そこは子供の頃から通り慣れた道だというのに、その時は見知らぬ世界に一人だけ取り残されたかのような気分に陥っていた。

 その翌日、俺は再びSの家へと赴いてみる。
 敷地内を見れば昨日はなかった車が停められており、今日は親がちゃんといるらしい。
 次に玄関のインターホンを鳴らすと、少し待ってからドアが開く。
 だが姿を現したSの母親は非常に疲れ切り、俺の顔を見た途端にいきなり涙を流すとしゃがみ込んでいった。
 俺は予期せぬ展開に動揺するしかなかったが、ひとまずは母親に声をかけると何とか落ち着かせようと試みる。
 すると母親もまだ浮かない顔をしていたが、平静を取り戻すと俺を家へ上げてくれる。
 客間に通された後はそれとなく話を聞いてみたが、どうやら母親が取り乱した理由はSにあるようだった。
 俺は出された茶や菓子に手をつける事も忘れ、それからすぐにSがどうなったのか尋ねてみる。
 それでも正面に座って顔を俯かせる母親は、不安そうに目や体を震わせるばかりでなかなか話そうとしなかった。
 もしかしたら世間体などを気にしているのかもしれないが、そんな事は俺には関係ない。
 Sのためだと追及と説得を続けると、やがて母親も踏ん切りがついたのか少しずつ重い口を開いていった。

 母親が言うにはSは親の目から見ても、真面目で人を思いやる良い子だったらしい。
 しかしそれがここ数日で明らかにおかしくなり、気が狂ったように暴れ出すようになったそうだ。
 部屋にある物は片っ端から放り投げられ、すでに部屋の中はおもちゃ箱をひっくり返したかのように滅茶苦茶になっていたらしい。
 一方でSがそこまで変貌した原因については、両親はどちらとも思い当たる節がないそうだ。
 そのためにひとまずは様子を見ようという事になったのだが、そうすると今度はSが何の脈絡もなく笑い出す事が増えていったらしい。
 何がおかしいのか頻繁に続けられる笑いは尋常ではなく、何とか話し合おうとしても決して笑いを止める事はなかったそうだ。
 それから日を跨いでも、Sの情緒不安定な状態はまるで改善の兆しを見せない。
 仕方なく病院に連れていこうとしても、頑として部屋の中からは出ようとしない。
 それどころか家族に対しても警戒するような態度で、一言も口を利いてくれないそうだ。
 ただ不気味な笑いだけは健在なままで、朝から深夜まで不定期に続けられているらしい。
「こんな事は誰にも言えず、学校も体調不良で休ませてもらっているの……」
 頭を抱えたままの母親は嘆いたように呟くと、終いにはすすり泣くように涙を流し出す。
 それを見ているともうこれ以上、母親から話を聞くのは酷ではないかすら思えてくる。
 加えてその時の俺には、何か心に引っかかるものを感じていた。
 Sの様子がおかしくなったのは、確か数日前……。
 まさかあの日、Sが話していた事が関係しているのだろうか。
 聞いていた時にはまるで信じられなかった、あの都市伝説のような話が……。
 俺は頭の中ではその思いつきを否定していたが、まさかという疑惑はいつまで経っても消える事はない。
 そうなるとその場で考えを巡らせていても不毛でしかないと思うようになり、次の瞬間には意識する前に自然と体は立ち上がる。
 そしてまだ涙を流しているSの母親に一言告げると、客間を後にして階段の方へと向かっていった。

 Sの家にはこれまでに何度か来た事があり、その間取りはすでに把握している。
 二階にあるSの部屋の場所も分かっており、そこへ向けて迷いもなく進んでいく。
「……」
 そして静まり返ったSの部屋の前にまで辿り着くと、俺はまずノックをしようと腕を上げる。
 だがここまで順調だったにも関わらず、何故かそこで体の動きが止まってしまう。
 そうなった原因は不明だが、同時に周囲の事がやけに気になった。
 ここは今までに何度となく訪れた場所だというのに、どうしてだか辺りからは違和感しか伝わってこない。
 いやに静まり返っているのもひどく不気味に思え、まるで体中に虫が這っているような気持ち悪い感覚が付き纏う。
 それでもここで立ち止まっていても、何も分かりはしない。
 俺は意を決すると腕に力を込め、無理にでもSの部屋の扉をノックする。
 しかし中からは何の応答もなく、しばらく待ってみても何も反応は返ってこなかった。
 声をかけてみた所でもちろん応答もなく、逡巡はしたが続けて扉のノブに手を伸ばす。
 すると鍵はかかっていないようで、思いの外あっさりとドアを開けられる。
 一応は入るぞと短く断りつつ、重くなった足を引きずるようにしてSの部屋へと入っていった。

 雨戸が閉め切られているのか室内は真っ暗で、まずは明かりを付けなければ中の様子を知る事はできそうにない。
 俺は手探りでスイッチを探し当て、次の瞬間には視界が白くなる程の光量に目が眩みそうになる。
 ただそれが落ち着いてくると、俺は目に入ってきた光景に驚くしかなかった。
 部屋中には物が無秩序に散乱しており、室内だというのにまるで台風でも通り過ぎたのかと思える程の惨状となっている。
 本やノートはどれも無残に引き千切られ、机やクローゼットなどはどれも中身を床に吐き出していた。
 壁や天井には物を激しく投げつけたのか傷ついた跡がいくつも残り、そこでしたであろうSの暴れっぷりが容易に窺える。
 まるで、気が狂ったように暴れていた……。
 母親から話を聞いた時にはにわかには信じられなかったが、どうやら事実だったらしい。
 目の前の有様を見るとSがどれだけおかしくなったのか、それが一目瞭然で絶句するしかなかった。
 Sは一体、本当にどうしてしまったのだろう……。
 俺はそう思った直後からSを探し始めたが、その姿はすぐに見つける事ができた。
 ベッドの方へと目をやると、そこに敷いてある布団が人くらいの大きさに膨らんでいるのが分かる。
 続けてそこに近づいて様子を探ると、微かに寝息も聞こえてきた。
 Sはどうやら今は眠りについているようで、異様な部屋の中にあってそこだけはごく平穏な場所となっている。
 それに気付いた俺は随分と呑気だなと思いつつ、ようやく少しだけだが気が楽になった。
 確かにSは少しおかしくなってしまったが、それも一時の気の迷いのようなものだろう。
 俺達も受験を控える時期だし、学業に関するストレスなどでそうなってしまったのかもしれない。
 特にSはオカルト関係の勉強は大好きだが、学校でする勉強は大嫌いだったからな。
 いつも一緒にいて気が付かなかったが、密かに心を病んでいたのかもしれない。
 それでもこうして安らかに寝られているのだから、きっといつものSに戻る日もそう遠くないだろう。

 俺は自分を納得させるように幾度か頷くと、改めて部屋の中を見渡していく。
 あれだけ大切にしていたオカルト関係のグッズなども大半が壊れてしまい、部屋の中にはゴミの山ばかりが築かれていた。
 それから足の踏み場もないような床の上を歩いていくと、やがてSの使っているであろう机の前に辿り着く。
 そこには雑多に溢れる物に混じり、何の変哲もない一冊の大学ノートが置いてあった。
 普段なら気にも留めないくらいどこにでもありそうな代物であるが、俺は何故かそれから目が離せなくなってしまう。
 気が付けばノートを手に取り、そのままじっと眺めるようにまでなっていた。
 見ればノートの表紙には書き殴ったように、隣の世界とだけ書いてある。
「……!」
 俺はその単語を見た途端、息が止まったかと思えるくらい動揺していた。
 あまりにも乱れ切った室内やSの姿を見ている内に忘れていたが、やはりこれら全ての激変はあの話と関係があったのか?
 Sは一体、このノートに何を書いたんだ。
 もしかして、ここに全ての答えがあるのか……?
 俺は頭の中に湧いて出てくる疑問を抑える事ができず、自分でも驚くくらいあっさりとノートを開いていく。
 そして他人の部屋で他人の個人的な情報を覗いている事も忘れ、内容を読み解く事だけにひたすら集中していった。

 それはどうやらSが直筆で書いた日記のようだが、日々の出来事を綴る普通の日記とは違うらしい。
 そこに書かれている内容はSが夢で見た内容を元にしているらしく、隣の世界に行くための実験記録のようなものなのかもしれなかった。
 改めてそれを読み進めていくと、まず一日目には失敗と書かれている。
 さらに夢の内容や実際に取った行動も書かれているが、文字の小ささや掠れ具合などからは明らかな落胆ぶりが伝わってくる。
 それは二日目も同様で、また失敗と書かれていた。
 その後に続く内容も同様だったが、さらに下の方にはまた別の何かが書かれている。
 ページの下部にあったのは同じ文章で、強過ぎる筆圧で管理者が見つからないと何度も何度も繰り返し書かれていた。


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