とびらひらき 1



 そこは近代化されて発展した町の近くにありながらも、今もなお豊かな自然の残る場所だった。
 高台にある神社の敷地内には木々が所狭しと植えられ、小さな森か林のようになっている。
 ただし季節はもう冬に差し掛かろうかという時分であり、周りの樹木はすでに色鮮やかさを失いつつあった。
 だがそうなってもなお、まだ辺りには厳かで神秘的な雰囲気が多分に残っている。
「馬鹿野郎! そんなふざけた事を言うためにわざわざ連れてきたのか!」
 そんな穏やかさで満たされた空間にあって、それを引き裂くかのような怒声が響き渡っていった。 誰が発したのかと見てみれば、ランドセルを背負った活発そうな少年が目に付く。
 その少年はやや色褪せた古いジャンパーを着込みながら、今もなお収まらぬ怒りに体をずっと震わせている。
「そ、そんな……。急に大きな声出さないでよぉ」
 一方ですぐ近くの真正面にいたのは、真新しいマフラーを首に巻いた同年代くらいの少年だった。 背には傷一つないランドセルを背負い、びくついた様子で体を硬直させている。
 相手と目を合わせる事もできぬまま、眼鏡の下の潤んだ瞳からは今にも涙が溢れてしまいそうになっていた。
「うるせぇ! もう勝手にしろ! お前なんてどこにでも、さっさと行っちまえばいいんだ!」
 しかし相対するジャンパーの少年の怒りは一向に収まる気配を見せず、速やかに踵を返すと足早に立ち去っていく。
「ひっく……。う、うぅ……」
 残された眼鏡の少年はそれをただ見送った後、しばらく静かな嗚咽を漏らしながら立ち尽くしていた。
 それでもある時、不意に体の向きを変えたかと思うとどこかへ歩き出していく。 その歩調はあくまで緩慢であり、途中でふらつきながらも決して立ち止まる事はない。
 虚ろな目は前方にある何かだけをじっと見つめ、いくつもの藪や居並ぶ木々の間をすり抜けていった。
 やがて眼鏡の少年の行く手にはこの瞬間にも崩れてしまいそうな程の、とんでもなくぼろぼろな社が現れる。
 小さめで古びた外観のそれは全体的にひび割れ、作られてからかなりの時が経過しているのが容易に感じ取れた。
 装飾された部分も大半は外れているか壊れており、前面にある戸のような部分は完全に閉じ切っていない。
 薄暗い内部を覗き込めば、何やら文字のようなものがびっしりと書き込まれているのが確認できる。 ただしほとんどは掠れて判別できない上、現代で使われている言葉なのかどうかも怪しかった。
 周囲は深い緑に覆われているが、何故か植物は社を避けるように葉や枝を伸ばしている。
 おかげで壊れかけの社ばかりが目立つ格好となっているが、一応はきちんとした作りをしているのでそれなりの威厳は残されていた。
 それは一体どのようなものを祀っているのか定かではないが、最低限の風格は今もまだうっすらと漂っている。
「……」
 眼鏡の少年はそれを見つめたまま呆然と突っ立っていたが、やがて一歩ずつそちらへと足を進めていく。 その度に得体の知れない、言葉にできない迫力のようなものが増していくが構いはしない。
 次の瞬間には眼鏡の少年の行動を後押しするかのように、この季節にしてはやけに冷えた木枯らしが一気に吹き抜けていった。

「くっ……。何なんだよ……。あいつ。悩みがあるなら、どうして相談してくれなかったんだ」
 やがて神社を後にした少年は坂を乱暴に下りながら、かなり悔しそうに口を噛んでいる。
「あんな事を言われたって、俺は……。俺は友達だと思っていたのに、あいつは俺の事を……。何だと思ってたんだよ……。ちくしょう……」
 さらにそう続けながら表情を歪め、少しずつ手足の動きを緩めていく。 その時に脳裏に浮かんでいったのは、今から少し前にあの場で起きていた出来事についてだった。

「とびらひらき?」
 ジャンパーのポケットに両手を突っ込んだまま、少年は不思議そうに顔を傾げていく。
「そうだよ。この地に古くから伝わる伝承なんだって。亡くなったお爺ちゃんが持ってた古い、とても古い本に書いてあったんだ。何でもその神様は、人が大好きなんだって」
 対するマフラーの少年は手振りを交え、何度も頷きながら楽しそうな表情すら浮かべていた。
「あぁ……。そう、なのか」
 だがジャンパーの少年の反応は明らかに鈍く、荒唐無稽とも言える話にただ目を丸くしている。
「だからね、あのお社の前で願えば……。その向こうにある、神様のおわす世界に連れて行ってくれるんだって。ね、すごい話だと思わない?」
 一方で意気揚々と語る少年は、細い指を唐突に横へ向けていく。
 そちらを見ればその先には、強い風でも吹けば崩れてしまいそうな程にぼろぼろな小さい社があった。
 しかしそのみすぼらしさとは裏腹に、指し示す少年の目は今もずっと輝いている。 興奮や上気した様からは、そこにあるものを何も疑わない純心さが溢れ出ているかのようだった。
「ふーん。で、それがどうしたんだよ。まさか、それをやろうとでも言うつもりか?」
 対照的にジャンパーの少年はひどく冷めた様子で、社の方を見ようともしていない。 ふと足元にあった小石を適当に蹴り飛ばすと、それは地面の上を転がって先にある草むらに入り込んでいった。
 ジャンパーの少年はそれでもなお、行方の分からなくなった小石の方をずっとつまらなそうに眺めたままでいる。
「う、うん。そうだよ……」
 するとマフラーの少年もやや肩を落とし、おどおどとした様子で小さく頷いていった。
「何言ってんだ、お前。そんな訳の分からない所に行って、戻ってこれるのかよ? まぁそもそも、そんな所に最初から行けるとは思ってないけどな」
 ジャンパーの少年の応対はそれからも芳しくなく、呆れたように溜息をつくとようやく正面へと視線を戻す。
「これないよ」
 その直後にそちらから返ってきたのは、やけに短くはっきりとした声だった。 声色も声量も大して変わっていないにも関わらず、どうしてだかそれは辺りに響き渡るように確かに浸透している。
「……!?」
「だってそこは、神様のおわす世界なんだもの。ただの人である僕が、行けるだけでも恵まれ過ぎた事なのに。そこから戻ってしまうなんて。あまりにも無礼だよ。ありえない」
 予想だにしない言葉にジャンパーの少年は耳を疑うが、そこにいる相手は先程同様に疑いなど微塵も持たず笑んでいる。 ただし少し病的とも言える表情や雰囲気は、やや薄暗い場所にあってどこか空恐ろしささえ感じられた。
「は……? な、何でそんな所に行かなくちゃいけないんだよ。馬鹿じゃねぇの。行く理由がないだろ。理由が」
 それを目の当たりにしたジャンパーの少年は相当に動揺し、視線を縦横無尽に揺らしたまま声を上ずらせている。 よく見知った相手がいつになく見せた、いつもとは明らかに違う姿が余程堪えたかのようだった。
「僕には、あるよ。僕はね、心底この世界が嫌になったんだ。親からは勉強、勉強って口うるさく言われて。学校でも先生から、お前は勉強を頑張りなさいって言われてさ」
 一方でマフラーの少年はわずかに顔を俯かせると、頭を手で何度も掻いていく。
「それ以外じゃ、僕の事なんて誰も何も気にしてなくて。塾でも家でも、どこにも。結局この世界に、僕の居場所なんてなかった。皆、僕の成績にしか興味がなかったんだ」
 段々と語気を強めるに従って手の動きも徐々に早くなり、次第に髪をかきむしるようにまでなっていった。
「……」
 ジャンパーの少年はその異様かつ執拗なまでの姿に対し、絶句したまま立ち尽くしている。
「だからね、僕は決めたんだ。勉強なんてない、うるさい親や先生もいないそんな所へ……。とびらをひらいて、いこうって。今日の朝、自然と思い立ったんだ」
 やがてマフラーの少年は手を止め、姿勢を戻すと共に態度もすっかり元に戻していく。 それでも吐き捨てるように言った後の微笑みには、儚さと同時に狂気が入り混じっているかのようだった。
「どうして、俺にそれを言うんだ……」
 対するジャンパーの少年はポケットから手を出す事も忘れ、どうにか言葉を絞り出している。
「……君が友達だから」
 それから少し間を置いた後、マフラーの少年はやけに小さく呟いていった。 その瞬間にはおかしな様子はどこにもなく、年相応の普通な姿に見える。
「……?」
 だがジャンパーの少年には言葉の真意が分からず、ただ不思議そうに眉間にしわを寄せるだけだった。
「勉強しかできなかった僕に気さくに話しかけたり、色々と遊びに誘ってくれたのは君だけだった。何もかもが無関心な僕の家族と違って、君だけが僕にとって救いだったんだ」
 マフラーの少年はそれから目を細めると、懐かしい事を思い出すかのように語り出す。
「……」
 相手の事などお構いなしといった一方的な口調に対し、ジャンパーの少年は口を開けっ放しにしたまま放心している。
「こんな風に思い切れたのも、君のおかげで変われたから。そんな大切で、唯一の友達だからこそ……。最後にお別れをしておきたかったんだ」
 やがてマフラーの少年は正面へ視線を戻すと、そこへ向けて手を伸ばしていく。 その様はまるで、別れの前に握手でも交わしたいと言いたげだった。
「くっ……」
 しかし肝心の相手は顔をしかめるだけで、ポケットから手を出そうともしていない。 むしろかなり力が込められた腕などを見ると、手を余程強く握り締めているかのようだった。
「どうしたの?」
 そうなった原因が自分にあるという自覚がないのか、マフラーの少年は平然と不思議そうな顔を浮かべている。
「このっ……」
 だがジャンパーの少年からすれば、その姿を見ると余計に怒りが込み上げてきたらしい。
 次の瞬間には息を大量に吸い込んだ事によって胸が膨らみ、その口も今までになく大きく開かれていった。

「馬鹿野郎!」
 そしてつい少し前に叫んだのと同じくらい大きな声を、ジャンパーの少年は思わず叫んでいた。
「何でそんな事をするんだよ……。俺はお前にそんな事をやらせるために声をかけた訳じゃない……」
 それでも大声を出した事で落ち着きを取り戻したのか、その後は声の調子を一気に下げていく。 自然と表情や態度も大分落胆したものとなり、すでに歩く速度もいつ止まってもおかしくない程に下がっている。
「俺は……。単にお前と……」
 やがてそう呟く頃には長い階段も終わり、麓にある歩道へと完全に足を付けていく。
「へぇ……。どうやら、随分落ち込んでいるみたいだね?」
 すると次の瞬間、側方からこちらに向けて涼やかな声が放たれてきた。
「……!?」
「やぁ」
「何だよ、お前……。見かけない奴だな。違う学校の奴か?」
 驚いた少年がすぐに声のした方へ振り向くと、そこにはつい直前まで気配も感じなかったのに人の姿がある。
 気さくに手を振る少年は気温の低さに合わぬ半袖と半ズボンを着用し、目深に被った帽子によってその表情はよく窺えなかった。


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