谷 7



「いや……。僕はもう、何度もしてきたのかもしれない。これまでの旅の中で、知らぬ間に少しずつ……。ここでも、また……。僕はいつの間にか、あの人と同じに……」
 さらに深く目を瞑ると、表情を歪めながら苦しそうに声を漏らす。 体も風邪でも引いたかのように震え出すと、立っているのも辛そうに見える程だった。
「おいおい、どうしたんだ? 具合でも悪くなったのかい?」
 それに気付いた夫も側に近寄ってくると、妻と共に心配そうな視線を向けてくる。
「いや、大丈夫。少し、うんざりしてしまっただけだよ。これまでの自分がとても、とても情けなくて。でもそれも、もうお終い」
 しかし少年はすぐに首を軽く横に振ると、顔を上げて二人の方をじっと眺めていった。
「これからは僕も変わっていく。今までできなかった、これからしてみたい生き方を始めていくんだ。あなた達のように」
 その顔には以前までの暗く思い詰めた面影はなく、確かな自信と活力に満ち溢れている。 特に相手を見据えるように開かれた目からは、眩いばかりの光でも発しているかのようだった。

「そういえば、まだちゃんと名前を聞いていなかった気がする。君の名は……。一体、何と言うんだい?」
 やがて今度こそ少年が村を後にしようとした時、不意に夫が思い付いたように声を上げる。
「デイオン。これは母さんからつけられたものとは違う。僕がかつて持っていた……。本当の名前さ」
 するとすでに先の方へ歩いていた少年が顔を上向けながら声を上げ、最後に一度だけ振り返ってきた。
 その口元には笑みを浮かべ、ぽかんとしたような反応を浮かべる夫婦を背に少年はなおも歩き続ける。
「神の火を分けたもの、か。ただこの大きさだと、あの谷程の効果はきっとないんだろう。でも、それでも何かをする価値はきっとある」
 途中でふと松明を見上げると仄かに灯った明かりは進む先を満遍なく照らし、光の届く隅々にまで暖かさを行き届けていった。
「そうさ……。人が変われるならきっと、世界だって。望めばより良い方向に変えていく事ができるはず」
 デイオンはそれを眺めながら目を細め、自然と顔を綻ばせていく。
 頭上の空ではまだ大部分に黒い雲の群れが鎮座し、おかげで辺りは冬のように冷え込んだままでいる。
 雨や雪こそ降っておらぬものの、厚着でもしないとすぐにでも凍えてしまいそうだった。
「分け与えられた火を絶やさぬように。この火を分け与えられる人や、場所を見つけられるように。それこそ、僕の進むべき新たな道。生き方なんだ……」
 だが今も道を歩くデイオンは微かに寒がる素振りすらなく、次に自分の胸の辺りにそっと手を触れていく。
 そこで脈打つ心臓は今も欠かさず鼓動を続けているが、デイオンにとっては恐らくそれ以外にも意義がある。
 かつてデイオンが誰からも教わる事のなかった、人が本来持つ優しさや心遣い。 それを知り得たからこそ体の芯にある、心そのものが余計に暖かくなって仕方がないかのようだった。


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