谷 1



 その地方はすでに冬の訪れが近いのか、感じられる気温も大分低くなっている。
 空を見上げれば日中でも常に大量の黒雲で覆われ、昼間がなくなってしまったかのような風景はどこか不気味に映った。
 地上には太陽の光がほとんど届かないため、植物はおろか動物にも覇気がないように思えてくる。
 ひたすら薄暗い場所が延々と続くそこにいると、ただそれだけで気が滅入ってくるような寂しい所でもあった。

 そんな地方の中でもある山間の谷間に、小さな寒村があった。
 そこには観光できるような景色や施設も特になく、昔からの農業や狩猟で生計を立てる少数の村人しか住んでいない。
 どこにでも現れる行商人すら滅多に訪れぬ村では家同士の結び付きが強く、誰もが親しい間柄だった。
 皆が顔見知りのために諍いなどもほとんどなく、大きな波風も立たない代わりに変化に乏しい。
 周りを自然に囲まれたまま独特の時間が流れるそこは、ある意味では完全に閉じ切られた世界とも言えた。

 ある時、そんな村に一人の少年が訪れる。 小高い坂の上から辺りを見下ろす視線は、辺りを吹き抜ける風のようにどこか冷たい。
 体にはマントを纏っているがとても粗末で、荷物も肩からかけた小さなバッグくらいしか持ち合わせていないようだった。
 首からはネックレスを下げてはいるが途中でちぎれ、先端には何も結ばれていない。
 帽子や服もどこもぼろぼろで、困窮した見た目は旅人と言うより浮浪者に近かった。
 ふらふらと揺れながら歩く様は栄養失調や病気かと思う程で、周囲の寂しい風景に溶け込むような惨めさすら漂わせている。
 当人の外見にもまだ保護者が必要なくらい幼さが残り、たった一人で流離う姿には危うさばかりが透けて見えた。
「おい、あれ……」
「えぇ……」
 小さな畑からその姿を見つけたある夫婦も、純粋に心配する気持ちから少年へ声をかける。
 対する少年は当初、近づいてきた相手を警戒したり値踏みするように眺めていた。
 それでも話をする内に口数も増え、やがて夫婦からの誘いに素直に応じていく。
 三人はそれから連れ立って歩いていくと、畑のすぐ近くにある家屋へと向かっていった。

 全面が石造りの家は豪勢ではないが、その分隅々まで頑丈に作り込まれている。
 大きめの暖炉によって充分な暖かさも保たれており、外に比べると随分と過ごしやすい。
 ただしそこには夫婦以外に住んでいる者はいないのか、内部の広さを少し持て余しているようにも感じられた。
「……」
 少年はそんな室内を一通り見回した後、年若い夫婦に促されるままに椅子につく。
 そしてそこでようやく一息つけたのか、改めて礼を述べると素直に頭を下げていった。
 その間の物腰はとても柔らかく、年の割にはかなり落ち着いて見える。 最後に上げた顔も人形のように整い、不思議な雰囲気はどことなく人離れしていた。
 ただでさえ珍しい外からの客な上にそのような容姿とあって、夫婦はすぐに少年から目が離せなくなっていく。
 それから簡素ではあるが、茶や菓子を振る舞うと少年は実に礼儀正しく対応していった。
 子供らしからぬ姿を見た夫婦はまたもやいたく感心し、ますます未知の訪問者に興味が湧いたらしい。
 外から吹き付ける風によって窓が音を立てて揺れる中、夫婦は少年との世間話に興じていった。
 その中でどうして一人で旅をしているのか、家族はいるのかなど気になった事を次々に尋ねていく。
 応じる少年はあまり多くを語らなかったが、特に不愛想だったり黙秘をする訳でもない。
 暖かな茶や心遣いの感じられるもてなしへの礼なのか、それからも穏やかに談笑を続けていった。

 やがていつの間にか時が経ち、互いに信頼感が生まれた頃に夫婦は自分達の話をし出していった。
「私は本当に幸せな者さ。こんな美しい妻と結婚できて。彼女は若い頃から少しも変わらず、いつまで経っても美しい。毎日見続けても、未だに飽きる事がないくらいなんだ」
 特に夫の話は自慢げなもので、手にしていたカップを机に置くとおもむろに隣に向き直る。 続けてそこにいる妻の手の上に自分の手をそっと乗せると、相手の顔をじっと見つめていった。
「まぁ、上手なんだから。でも、わざわざこんな人前で言わなくたって……」
 対する妻はまんざらでもなさそうで、紅潮しながらもうっとりとした顔で夫の方を見返していく。
 そのまま互いの目を覗き込むように見つめ合う二人は、すぐ側にいる少年の事など忘れてしまったかのようだった。
「……」
 一方で少年は茶を口へと運びつつ、その様子を傍から眺めている。 澄んだ色をした紅茶の入ったカップからは、今も暖かな湯気が立ち昇っていた。
 それは目の前の夫婦の関係を直に表しているかのようで、仲の睦まじい姿はとても幸せそうに思える。
 だがそれらとは対照的な程、少年の目はどこか冷たい。 外の気温と同じくらい冷め切ったそれは、暗い感情すら込められているかのようだった。
「ははは、初対面の人に見せるものじゃなかったかな。悪いね、放っておいて」
 やがて夫はようやく我に返ったのか、妻から視線を外すと椅子に座り直す。
 隣にいる妻も髪をすきながら姿勢を正すも、まだ頬の辺りにはやや赤みが残ったままだった。
「ふふっ。いやいや、ごちそうさま。でも、あなた達って本当に素敵だね。互いを信じ、決して裏切らず。そんなあなた達には世界はとても美しいものに見えているんだろうね」
 対する少年は静かに目を瞑ると、口元を多少乱雑にでも袖口の辺りで拭っていく。 落ち着いた雰囲気は直前までと異なり、冷たい印象などはとっくに消え去っていた。
「え……? 急にど、どうしたんだい?」
「でも、僕は違うんだ。僕にとって、世界はまるで別物。醜く汚れ、どこまでも偽りに満ちた地獄……。例え見かけが良くても、その中身や裏側なんて知れたものじゃない」
 夫や妻がその様を見て戸惑いを浮かべていると、少年は顔を俯かせて目も伏せてしまう。 憂うような表情は室内の空気すら変え、心なしか冷え込んできたかと思わせる程だった。
「実は僕はね。この世界を一度、作り直そうと思っているんだ。ここへ来たのも、その手段を手に入れるためなんだよ」
 さらに今度は腰を浮かせて夫婦の方へ顔を近づけたかと思うと、小声で囁くように告げてくる。
 今までその姿はごく普通の子供に見えていたが、この辺りから専ら印象が変わっていった。 幼さや可愛らしさといったものを残しつつも、段々と昏く妖しい雰囲気ばかりを募らせていく。
「え? は、え……?」
 対する夫婦は言い知れぬ迫力に気圧され、唖然としたまま口を開きっ放しにしていた。
「ここまで随分と長かった……。語り切れないくらいの苦労もたくさんしてきたよ。でも、ようやく手に入る。全てを変革させる、人知を超えた神の御業をね」
「いや、ちょ……。ちょっと……。私には君の言っている事がよく分からない、かな……。は、は……」
 それから椅子に腰を下ろした少年が得意げな顔をしている一方で、夫はかろうじて声を絞り出す。 ただし表情や態度には明らかに不安や不審が混じるようになり、どこか気味悪がる内心も容易く感じ取れる。
 それは隣にいる妻も同様で、露骨ではないにせよ目線は少し横の方へと逸らされていた。
「あなた達は知らないのか、それとも余所者には教えてくれないのか……。いずれにしても、ここにはあれがある。僕がずっと思い焦がれ、望み続けた旅の終着点。そう……」
 一方で少年は机の向こう側の様子など気にせず、窓の外へ目をやっている。
 その先にある空には蓋をするかのように黒い雲が広がり、その下に大きな山々や谷間がいくつか広がっていた。
 辺りはどこも岩や砂に囲まれ、植物や動物などは目に見えて少ない。
 乾き切った土地を行き交う風は妙に勢いが強く、ごうごうと唸り声を上げるように吹き付けてくる。
「神の火が」
 少年はそんな場所を見つめながら、何故かうっとりとするように目を輝かせていた。
「か、神の火? 何なんだい、それは……? 私はともかく、妻はずっとここに住み続けているがそんな話は一度も……。なぁ、そうだよな?」
「えぇ。そんな話や噂、これまで耳にした事なんてない。そもそも、こんな何もない村……。神だなんて、そんな大層なものがあるはずがないわ……」
 対する夫は動揺しつつも、強くしがみ付いてくる妻をその手で抱き寄せている。
「そ、そうだよな。全く、君も人が悪い。いきなり神なんて言うから、驚いてしまったよ……」
 そして言い知れぬ薄ら寒さを感じつつも、一縷の望みを託すように再び机の向こうへ視線を向けようとしていった。
「あれは完璧な美の一品。例え誰に気付かれなくとも、ただ在るだけで周囲の万物に影響をもたらす。その証拠に、この一帯は……。時の流れが他とは違うと感じないかい?」
 そこにいる少年は真顔のまま首から上だけを動かすと、こちらへ視線を向けてくる。 穏やかな表情をしているが目は笑っておらず、それどころか瞬き一つしている様子もない。
「……」
 貼り付いたような表情は仮面でも身につけているかのようで、それを間近で見る夫婦はどちらも言葉を失ってしまう。
「あなた……。ど、どういう事……? 確かにここは、外と少し違うなって思う事はあったけど……。私達って普通じゃないの? どこか、おかしかったりするの……?」
 それでも妻はやがて沈黙に耐え切れなくなると、縋り付くように夫の方を見上げていった。
「いや、そんな訳ない。ここは町の方と比べれば、人も時間もゆったりしているだけさ。違う所なんて……。そう、あるはずがないんだ」
 応じる夫は狼狽えつつも、しっかりと首を横に振りながら呟いている。 ただし自分に言い聞かせるような声はどこか力がなく、頼りなさや不安といったものが隠し切れずにいた。
「本当にそうかな。実際、ここに来るまでに見かけた村の人達……。彼等は誰もが若々しく、健康そのものだった。ほんの小さな怪我や、些細な体調不良すら見受けられない」
 一方で少年は落ち着いた様子で、おもむろに机の上の菓子に手を伸ばしていく。
「この村には医者や、病気の治療などを行う施設もないようだけど……。必要ないからこそ、ここにはないんだろう? どうしてだか、誰も病にかかったりなんてしないから」
 そのまま菓子を口に頬張る姿は子供そのものだが、その目は室内の明かりを反射しながら妖しく輝いている。
「全ては神の火がもたらす、超常の恵みに他ならない。あれの力は不老不死とまではいかずとも、人間に良い作用をもたらす。体を頑強に、心は穏やかに……」
 特に夫妻を順に見据える時などは、珍しい骨董品や美術品に心を奪われているかのようだった。
「そして緩やかな時の中……。誰もが理想に描く、夢のような暮らしを支えてくれる。でも……。あなた達が幸せに過ごす分、他の世界の人達は少しづつ不幸になっていく」
 しかし不意に表情を暗くすると、それまで菓子に伸ばされていた手をぴたりと止める。
 ころころと入れ替わる雰囲気や様子を前に、夫婦は口も挟めずにじっと聞き入る事しかできなくなっていた。


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