「えっと……。もし良かったら、事情を聞かせてはくれませんか?」
行安はそんな相手になおもゆったりと、落ち着かせるかのように重ねて問いかける。
「こいつは、人を襲った。普段はとても大人しいんだが、ある日を境に豹変して……。何でも、犬がかかる特異な病が原因らしい。可哀想だが、こうなったら殺すしかない」
すると猟師もわずかに銃口を下げるが、顔は決して行安の方には向けない。
苦悩は今もまだ続いているのか、表情が険しいままなのも変わらなかった。
「本気、なんですか……? この子はあなたにとって、そんなに簡単に切り捨てられる程度の存在なのですか」
「そんな訳ないだろう……! こいつはずっと天涯孤独の身だった俺にとって、唯一の家族。いなくなればまた、俺は一人きりになってしまう……」
行安が思わず不思議そうな顔を浮かべると、猟師は不用意な発言に急に声を荒げていく。
「だったら、止めてしまえば……」
「だが、この病を治せる方法がない。放っておけば、さらに病が広まる恐れもある。村の皆や野山に暮らす他の生き物全てか、それともこいつの命一つだけか……」
続く行安の不服そうな声に対しても、猟師は悔しげに体に力を込めるばかりだった。
他に拠り所がないかのようにきつく銃を握り締め、その目は今もこちらへ唸っている猟犬を見続けている。
「どちらか片方しか選べないなら、答えは決まっている。他に方法なんてなく、どうしようもない。だから俺が……。いや、せめて俺がやらなくちゃいけないんだ……!」
やがて猟師は俯きかけた顔を持ち上げると、表情を引き締めて猟銃を構え直す。
「グァッ……。ガアァァアッ……!」
揺るがぬ意思は銃口と共に前方へと向けられるが、猟犬はあくまで狂気に捉われたままとなっていた。
「くっ……!」
猟師はそんな相手に狙いをつけようとするが、何故か銃口がやけにぶれて思い通りにいかない。
それでも無理に押さえ付けるように銃口を定めると、引き金にかけた指に力を込めていった。
「……!」
行安は止める間もなく、ただ残酷な現実から逃れるように目を瞑って顔を背ける。
その直後に村内には一発だが、やけに大きな銃声が響き渡っていった。
ほぼ同時に聞こえてきたのは小さく切なげな鳴き声であり、その場には何かが倒れ込むような音もしてくる。
多くの人間が固唾を飲んで見守る中、一つの命がこの世から儚くも消え去る事となっていった。
「……」
あれから幾ばくかの時が過ぎたが、行安はまだあの出来事に囚われているようだった。
村外れには土で盛られた簡素な墓が建てられ、今もその前に座り込んだままでいる。
時刻はすでに夕方になろうかというのに、ひどく落ち込んで立ち上がる気配すらなかった。
「おい。いつまでこんな所で黄昏ているんだ。今日はこのまま、ここで野宿でもするつもりなのか?」
近くではあるがやや離れた位置には、呆れ果てた様子でいる童子の姿がある。
「分かってる。分かってるけど……」
いつもならそこで行安も文句の一つでも言い返していただろうが、今はただ生気のない顔を俯かせていた。
「ふん。たかが畜生が一匹死んだだけじゃねぇか。それも今日初めて会った、他人の飼い犬が。何をそんなに感傷的になる必要がある」
「何だと……! お前は化物だから、分からないんだ。あの人の気持ちも、最後にあの犬が見せた悲しげな瞳も……。お前なんかに、分かるはずがないんだ!」
対する童子は苛々とした様子を隠さなかったが、その言葉に行安は弾かれたように立ち上がる。
そして悲しみを怒りに変換するかのように、いつになく声を荒げて詰め寄っていった。
「はっ、そうかい。さすがは人間様だな。自分達の理解の範囲でしかものを考えられない。全く、おめでたいな」
「何だと……! それの何が悪いんだ!」
「悪いに決まってんだろ。世界はお前が思っているよりもっと複雑で、奥深い。お前が知らない事なんていくらでもあるんだよ。偉そうに知った風な口を利くんじゃねえ」
だが童子の態度は変わらず、胸倉を掴まれても一向に動じていない。
それどころか食って掛かってくる行安を見据えると、蔑むように目を細めていった。
「……お前!」
行安も我慢が限界に達したのか、あるいは返す言葉を見つけられなかったのかもしれない。
感情に任せたまま体を横に流すと、童子を地面に勢いよく押し倒していった。
「元はといえば、お前のせいだろ! この旅も、こんな悲しい事を知らなくちゃいけないのも……。全部はお前が、母さんや父さんを殺したから……。、だから……!」
そして辛い思いを一気に吐き出していくが、その目からはいくらでも涙が溢れ出て止まらない。
「あぁ、そうかい。悪いのはいつもオレ達の方なんだよな。それはしょうがないさ。所詮、この世は人のもの。オレ達は結局、虐げられて排除されていくだけの存在」
童子は赤く輝く光の粒のようなそれらを、初めはただじっと眺めているだけだった。
「だがな。だったら、どうすれば良かったんだ。あの時……。あのまま、オレ達だけが全滅したら良かったのか!」
それでもやがてこちらも感情をより露わにすると、行安の腕を掴んで投げ飛ばしていく。
「うっ、わぁっ……! あっ……。うっ……。ぐ、うぅ……」
宙に浮かび上がる程の凄まじい力で投げ飛ばされると、行安は先の地面に体を打ち付けて苦悶の声を上げていった。
「お前の両親は妖怪の討滅を生業としていた。いやお前の両親だけではなく、あの村では大概の大人がそうだった。それ自体に文句を言うつもりはない」
一方で童子は平然とした様子で、体についた土埃を払いながら立ち上がっていく。
「妖怪は人を襲うし、その逆だって有り得る。人と獣の関係と同様にな。どれも弱肉強食という、ありふれた出来事。自然の摂理の一部。あって当然のものなんだ」
そして今も横になって苦しそうにしている行安を眺めつつ、ゆっくりと歩き出す。
「それは太古から続く、ある種かけがえのない決まり事で……。気に入らないとか、認められないとか……。そんな理由で、一方的に壊していいものじゃない……」
「……?」
その顔つきはどこか神妙で、やっとそちらを見られるようになった行安も思わず不思議そうにしていた。
「お前は知らなかったのだろうがな。あの時、お前の両親は近隣の妖怪を根こそぎ排除しようとしていた。あの禿げですら止めに入ろうとした程だ。やり過ぎだったんだよ……」
「嘘だ……」
「嘘なものか。あいつは全て知っている。そしてだからこそ、あんな脅しをかけてきやがったんだ。オレが旅に出なければ、生き延びた妖怪がどうなるか分からんぞ……。と」
「いいや、絶対に嘘だ! 和尚様は僕を拾って育ててくれて……。とても優しい人で、いつも僕を気に掛けてくれて……!」
さらに童子は険しい顔つきのまま、感情のままに首を横に振る行安とは対照的になっている。
「お前には両親から受け継いだ稀有な才能がある。あいつはそれを利用するため、お前を引き取ったんだろう。何もかもが計算づくだったんだよ」
心苦しそうに歪めた顔はやや疲れも浮かび、目を伏せたまま声を潜めていく。
「もしかしたら今回の旅も、お前に色んな現実を見せつけるため。いざ妖怪と戦い、殺すというような事があっても動じないようにするためだったのかもな」
その様子に嘘をついているような兆候は見られず、冷めた態度は逆に真実味を帯びているかのようだった。
「……」
だからこそ行安も何も言い返せず、体を震わせながらきつく口を噛んでいる。
心の拠り所を完全に打ち砕かれたためか、行安はそれからも虚ろな目をして動こうとしない。
空はすでに黒く染まり始めているが、二人の側には明かりになるようなものもなかった。
「はぁ……」
童子はあからさまに溜息をついているが、行安が動かなければそこに留まる他はない。
やがて月明かりすらない辺りは暗闇に閉ざされ、吹き付ける夜風が何もかもを冷やし尽くそうとしているかのようだった。
それから日が明けると行安は前触れもなく立ち上がり、ふらつきながらも歩き出す。
気付いた童子がその後を付いていくと、何事もなかったように旅は再開していった。
真っ直ぐに続く道を淡々と歩く二人の姿は、傍目には何の問題もないように思える。
しかしやはり気まずい空気はまだ確かに残っており、会話のない静まり返った時間は無限に続いていくかのようだった。
「他に方法なんてなく、どうしようもない。だからオレが……。いや、せめてオレがやらなくちゃいけないんだ……!」
そんな中でも行安の脳裏には、昨日の猟師の言葉が頭に響き続けている。
同時に思い浮かんだのは昨日の童子の表情であり、それはどこまでも歪みながら何かを話し続けていた。
二つの顔はまるで別物なのにどこか似通って、それからも延々と同じ場面を映し続ける。
行安はその連続に何かを見出す事もなく、かといって誰か相談できる相手がいる訳でもない。
今できるのはただ歩き続ける事ばかりで、それからも前を向いたまま亡霊のように歩を進めるしかなかった。
やがて平地を進み続けた二人は、それから行く手を遮るように現れた山に差し掛かる。
そこは豊かな木々や植物の匂いに満ち、遠くの方で高らかに鳥の声がする平穏な場所だった。
「……」
だがその中にある切り開かれた道をなおも歩いていくと、不意に行安が足を止める。
「あ……? 何だよ」
やや後方にいた童子は何事かと思い、怪訝そうに横から顔を出す。
二人の前方はやや上り坂となっており、その頂点には一頭の狼が待ち構えていた。
「グルルルルッ……」
ただし陽を浴びながらやや影の差した外見は、明らかに普通の狼とは異なっている。
まず全身を覆う毛は火が揺らめくかのように逆立ち、その巨躯も通常の獣とは一閃を画していた。
突き刺すような殺気を常に放ち続けるその様は、異形の存在というしかない。
「ようやくやって来たか。伝えられた情報から、少し遅れはしたが……。まぁ、いい。待っていたぞ。討魔士の息子め」
やがて狼は口を開いたかと思うと、人語を滑らかに発していく。
それでも目は血走ったまま、その全身からは隠し切れぬ憎しみが途絶える事なく放たれていた。
「……こいつは僕が倒す。お前は手を出すな」
対する行安は驚く様子も、取り乱す訳でもない。
睡眠不足のためか目の下には大きなくまがあるが、それ以上にその顔つきは明らかにこれまでと異なっている。
相対する狼と同じくらい鬱屈とした感情を溜め込み、微かなきっかけでもあればすぐにでも爆発してしまいそうだった。
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