旅 1



「和尚様? 何かご用でしょうか」
 障子がゆっくりと開かれた後、縁側の方から声をかけてきたのは純朴そうな一人の少年だった。
 同時に室内には陽光が入り込み、即座に眩しいくらいの明るさが取り込まれていく。
「おぉ、行安。そうだな。実はお前達に言いつけておく事があってな。それで呼んだのだよ」
 それでもなお薄暗さの残る部屋の奥にいたのは、素朴な印象を受ける老人だった。 剃髪された頭部に加え、僧侶のような格好をしてやや低めの机に向かい合っている。
「お前、達……? あの、和尚様……」
 対する行安はやや不安そうに顔を傾げると、部屋の前で躊躇ったように動きを止めてしまう。
「まぁ、そんな所におらずに部屋に入って少し待つがよい。さぁ、さぁ」
 一方で和尚は書き物を途中で止めると、体の向きを変えながら招き入れるように手を動かしていった。
「は、はい……」
 すると行安もまだ浮かない様子ながら頷き、探るように慎重に足を踏み入れていく。
 そこは掛け軸や様々な書物など、およそ大概の物がきちんと並べられた理路整然とした部屋だった。
 掃除も細部まで行き届いているが、室内の香りなども含めてやはりどこか古臭さが否めない。
 眼前にいるのも同じくらいの古さを蓄えた老人であったが、何故か終始その顔つきは曇っている。
「……」
 どうやら何かを深く考え込んでいるのか、それからも腕を組んだまま口を真一文字に結んでいた。
「あ、あの……」
「おい。呼んだか、生臭坊主?」
 見かねた行安が思わず声をかけようとすると、それとほぼ同時に後方から声がしてくる。
「お前……」
「何だ、お前もいたのか。相変わらず、辛気臭い顔をしやがって」
 行安が驚いた顔をして振り返ると、そこには気だるそうな顔で佇む子供の姿があった。
 つい直前まで一切の気配すら感じさせなかった当人も、今は目付きの悪い面持ちを向けながらごく自然に嫌味を口にしている。
「……」
 すると行安も相手を睨むようにしたまま、見る見るうちに表情を険しくしていった。
「ふぅむ……。どうやらその様子では、まだあまり仲良くなってはおらんようだな?」
 一定の距離を保った状態で歩み寄る気配のない二人を見ると、和尚も息を吐きながら眉間にしわを寄せるしかない。
「はい。なれるはずがありません。そもそも、どうしてこんな奴と……」
「はっ。それはこっちの台詞だ。仲良くなるつもりなんて、こっちだってさらさらないしな」
 それでも両者は互いを睨み合った状態を変えようとせず、視線の間には火花すら散っているかのようだった。
「そうか。充分に時は与えたはずだが、こうも進展がないとは……。では、やはりこうする他はないようだな……」
「?」
 すると和尚は目を伏せながら肩を落とし、それを見るとさすがの二人も不思議そうな顔を浮かべていく。
「まぁ、まずは座りなさい」
「けっ……。えーらそうに……」
 そして直後に和尚が自分の前を指し示すと、部屋の外にいた子供も不機嫌そうではあるが部屋へと足を踏み入れる。
 そのまま畳の上にあった座布団を引き寄せると、どかっという音を立てながらそこへ座り込んでいった。
 やがて行安もすぐ横に礼儀正しく座ると、二人して同じ方へ目を向けていく。
「実はな……。二人を呼んだのは他でもない。行安、童子。お前達、しばらく一緒に旅をするがよい」
 それから和尚はおもむろに腕を組むと、真剣な顔つきで口を開いていった。
「はぁ!?」
「えぇ!?」
 するとまたしても二人は似た反応を浮かべ、妙に気の合った驚きの声を室内に響かせていく。
「いや、待ってください! 旅って……。どうして僕がこんな奴と……。絶対に嫌です!」
「……」
 前のめりになって声を上げる行安を見ると、子供は思わず顔をしかめるように歪めていった。
「まぁ、落ち着け。そんなに難しく考える事もあるまい。これまでの修行の中でしてきた荒行に比べれば、別に何て事もあるまい?」
「それは……。ですが……! あまりにも……!」
 だが和尚が立派な顎髭を撫でつつ宥めると、行安もまだ不満気ながら体勢を元に戻していく。
「良いか。お前には自らを見つめ直す時間が必要なのだ。安易に復讐に走ってはいかん。御仏は全てを見通しておられる。お前の傾いた心も、そうなった原因もな」
 和尚はその姿を眺めつつ、なおも穏健に語り掛ける。
「……」
 すると行安も次第に心を改めたのか、まだ口を堅く結びつつも確かに頷いていった。
「無心で修行に励むといい。その果てに、きっと答えは見つかるであろう」
「おい。オレを差し置いて話を進めるなよ。その馬鹿げた行いに付き合ったとしてオレに一体、何の得があるって言うんだ?」
 それを見た和尚は思わず顔を綻ばせるが、蚊帳の外に置かれていた童子は苛立つ素振りを隠さない。
「……祈ってやろう」
 対する和尚はわずかに間を置いた後、貼り付いたような笑みを浮かべる。 その様は明らかにそれまでと雰囲気が違い、部屋の薄暗さに溶け込んでいるかのようだった。
「はぁ……? お前、ふざけているのか」
「そんなつもりはないがな。せめてお前の来世が少しでも実りあるものになれるよう、祈りを捧げてやる。お前が死んだらきちんと墓を立てて、念仏も唱えてやるぞ」
「分かった。お前、オレに喧嘩売ってるんだろ」
 一方で童子は最初は怪訝そうにしていたが、相変わらず剣呑とした相手に段々と態度を変えていく。 まだ幼さの残る外見と裏腹に、周囲の空気すら変えるような殺気すら放っていった。
「……」
 その凶悪なまでの雰囲気を間近で感じると、すぐ側にいる行安も驚いた様子で身を固くする。
「何だ、物足りんか。破格の条件だと思うがな……。お前でもこれまでの悪行をきちんと悔い改めれば、今度はせめて虫くらいには生まれ変われるかもしれんのだぞ?」
 しかし和尚の方は顔色一つ変えず、気だるそうに腰を持ち上げて立ち上がっていった。
 さらに縁側の辺りまで進んでいくと、そこから遠方に望む山々へと視線を移していく。
「馬鹿にしやがって……。オレが人間が縋り付いている、下手な妄想を信じるとでも思っているのか。オレはな、腐ってもこの辺りでは名の知れた……」
 童子はそんな相手をきつく睨み付けると、片膝を立てて凄もうとしていった。
「まだ言うのか」
「あ?」
 だが直後に和尚の発したまるで感情の窺えない声を聞くと、思わずその動きを止めていく。
「お前が言うのは旅に出ると、ただその一言だけでいい。そうすれば少なくとも、今ここでは……。その命を散らせる事もなくなるぞ?」
 続けて和尚はゆっくりと振り返ると、日を背にしたまま言葉をかけてくる。 陰りで暗く見える顔にはまだ笑みが浮かんでいたが、どこか言葉にし辛い迫力のようなものも感じ取れた。
「……」
 それまで口を挟む事すらできずにいた行安も、豹変とも言える変わりように言葉を失っている。
「はっ。上等だ。やれるもんなら、やってみやがれ……。例え力を封じられていようと、お前の言いなりになるくらいなら死んだほうがましだ……!」
 一方で童子は軽い動揺すら見せず、むしろ好戦的に立ち上がっていった。
 そして強い語気と勢いのまま、和尚の方へずかずかと歩み寄っていく。
「ふぅむ……。そう来るか。ならば、これではどうだ?」
 対する和尚は手を顎に当てて考え込むと、眼前に進み出てきた相手へそっと顔を近づける。
「……!」
 予期せぬ動作に童子は一瞬体をびくつかせたものの、そのまま耳打ちされた言葉に耳を傾けていった。
「糞が……。お前、本当に人間なのかよ」
 そしてすぐに眉間にしわを寄せると、これまでにない嫌悪感と共に悪態をついていく。
「あぁ、もちろんだ」
 対する和尚は年に見合うだけの老獪さを見せつけ、最後まで余裕と笑みを絶やさない。
 以降はその場で文句をつける者も出てこず、部屋の中はあっという間に静まり返る。
 思わず顔を見合わせる二人の間にも言葉はなく、ただ困惑を残したまま意図せぬ旅は始まる事となっていった。

 あまりにも突然の事で旅支度もまだであったが、それらは和尚の手によってつつがなく済んでいたようだった。
 当座の資金や万が一に備えての薬なども手渡され、今さら断れるような雰囲気でもない。
 特に旅の目的や目指すべき場所なども定まらない中、二人はとりあえず旅立つしかなくなっていた。
「ちっ……」
「はぁ……」
 同じくらいの背丈をした行安と童子は、やや距離を離した状態で前後に並ぶようにして歩いている。
 足音以外に聞こえてくるのは舌打ちや溜息などばかりで、どちらもまともな会話をしようともしていない。
 不満や鬱屈とした気持ちをずっと抱えたまま、重苦しい足取りはそれからも続いていく。
 丁度その頃、頭上にはやや低い空を悠々と流れる雲が差し掛かっている所だった。
 その影の下に入るとにわかに辺りは暗さを増すが、元から暗い雰囲気には微塵も影響を与えない。
 二人はそれからも近寄る事はなく、かといって互いに離れる事すらないような状態だった。
「あぁ……! ったく、もう……。うざったいったら、ありゃしない……!」
 そんな時に後ろを歩いていた童子は、ふと立ち止まると大きく頭を振る。
 直後には先程までは何もなかったはずの頭部に、それぞれ繋がり合った状態で巻き付いている札が現れた。
 その総数は五枚で全て色が違うが、どれもぼんやりと発光している。
 それに手で触れるとわずかな痺れが体を走り、嫌悪感が頭の中を掻き回していくようだった。
「あの爺、本当にやってくれるぜ……」
 子供が忌々しそうに呟きながら手を離すと、札は何事もなかったかのように消えていく。
「まさか、こんな保険をかけてくるとはな……」
 ただし憮然とした表情は残ったままで、直後には何かを思い出すようにじっと目を細めていった。

 それは旅に出る直前の出来事で、何故か童子だけが呼び止められる。
 そしてその場に行安だけを残すと、和尚に連れられて少し離れた場所へと移動していった。
「これはお前を縛るために丹精込めて作った特別製の札だ。もしあの子から一定以上に離れたり、あるいは危害を加えようとした時には札が即座に反応する」
 やがて建物の影に入り込んだかと思うと、和尚は振り向きざまに懐から取り出したものを投げつけてくる。
 見ればそれは五連の札であり、宙を舞うように飛ぶと童子の方へ向かっていく。
「ちょ、おい……!」
 突然の事に童子が反応し切れずにいると、札は流れるように頭部へと巻き付いていった。
「そしてまずは鈍い痛みを与えながら警告を発し、やがてそれが終わると真の効力を発する」
 和尚はその様子を眺めながら、表情一つ変えずに目を細めていく。 薄暗くじめじめとした場所にあって、そこは日向にはない寒々しさで満たされていた。


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