先輩 1



「なぁ、これって知ってるか? 塾の先輩から聞いた話なんだけどさー」
「あぁ。それは知ってる。俺も中学の先輩から聞いてさ」
「何だよ、じゃあこれならどうだ?」
 授業の合間の休み時間、喧騒に包まれた教室の中では生徒同士の声が盛んに行き交っていた。
 教室のそこかしこでは数人程のグループが組まれ、何かについて興味深そうな話し合いがなされている。
「……随分と流行ってるな」
 一方で廊下側の最後尾にある席に座っていた男子生徒は、それを眺めながらぼそりと呟いた。
「怪談ブームってやつか? 少し前はこうじゃなかったけどな。やっぱりテレビでやってるからじゃないか?」
 するとすぐ前の席にいた男子生徒が反応し、同じように辺りへ視線を向けながら答えていく。
「下らん。存在するかどうかも曖昧なものに振り回されてどうするんだ」
 続けて後ろの席の生徒は鋭い視線と強張った表情のまま、腕を組むと呆れたように言い放つ。
「そういや、お前はそういうのは信じないんだっけか」
 対する前の席の生徒は体を後ろへ捻らせると、椅子の背にもたれかかるようにして話しかけてきた。
「あぁ。生まれてこの方、そんなものは見た事がないんでな」
「へぇ、そうなのか。でもそれはお前がそういうのが出る場所に行ったりしないからじゃないか?」
「……どういう事だ」
「幽霊が出るとしたら墓場とか、人のいなくなった廃墟とかそういう場所だろ。そもそもそういうのがいない場所にいるんじゃ、見なくても当たり前じゃないか」
 それからも目付きの鋭い生徒と、淡泊な調子の生徒は周囲の話し声に紛れるようにして話し続ける。
「その言い方だと、出る所にはしっかりと出るみたいだな」
「まぁ、そこら辺は色々とな。出るって噂のスポットをいくつか知ってるんだ。実際にそこで霊とかを見たって話も聞いたぜ」
「でも、お前自身は見ていないんだろ?」
「ま、まぁな。でもつい最近、今まで知らなかった廃墟の情報を仕入れてな。実は今度、そこで肝試しをやろうかって話があるんだ」
 そんな中で目付きの鋭い生徒がわずかに眉をひそめると、淡泊な調子の生徒は少し困ったような顔で肩を竦めていった。
「肝試しか……」
「あぁ。そうだ、お前もそれに参加してみないか?」
「何だと?」
「いいだろ。幽霊がいるかいないか、はっきりさせるいい機会じゃないか」
「それは、そうだが……」
 目付きの鋭い生徒が考え込むように目を伏せる一方で、淡泊な調子の生徒は体を横に向けるとやや前のめりになってくる。
「何だ、口では強がっててもやっぱり心の底では幽霊がいるって思ってるんじゃないのか?」
 さらに挑発とまでは言わずとも、顔を傾けるといくらかはからかいがちに問いかけてきた。
「馬鹿な……。俺は、ただ……」
 目付きの鋭い生徒は少しむっとした顔つきで何かを言い返そうとしていたが、不意に辺りにチャイムの音が鳴り響く。
 それを合図とすると周りに散らばっていた生徒達は一斉に自分の席へと戻り、あれだけあった話し声も段々と小さくなっていった。
「じゃあ、行こうぜ。ちゃんと週末の予定は開けておけよ。詳しい日時と場所は後で電話するからさ」
 そんな中にあって淡泊な調子の生徒は最後にそう言うと、相手からの応答を待たずに前へと向き直っていく。
「あ、あぁ……」
 目付きの鋭い生徒はまだいくらか迷いがちではあったが、勢いに押されるようにして小さく頷いてしまう。
 そのすぐ後に教師がやってきて授業が始まると、辺りはそれまでにない静寂で満たされていく。
 時折聞こえてくるのも教師の声とチョークの音くらいで、無闇に響く騒音や授業を中断するような何かなど存在し得ない。
 それは何の変哲もないがごく当たり前の風景であり、特別な事など何もせずともこれからいくらでも経験できる。
 平凡で悩みのない学生の立場ならばそう考えて当然で、現に目付きの鋭い生徒もその時はただ授業の内容に没頭するように集中していった。

「あの時……。もし、俺が違う選択をしていればあんな事にはならなかったのか。せめて、あいつだけでも止めていれば……」
 暗闇の中からまず飛び出してきたのは小さな呟きであり、その直後には何者かが突き抜けるようにして現れる。
 暗がりよりなお昏い顔をしているのは目付きの鋭い男で、しっかりと見定めた前方から視線を放そうとしていなかった。
 辺りは人気のない路地であり、すぐ側には等間隔に街灯が設置されているがそれでもなお周囲は薄暗い。
 そんな中でも男は前方のただ一点のみに集中し、直後には懐へと手を伸ばして何かを掴み取っていった。
「こんな後悔、自分でも今さらだと思うがな。やっぱり、それでも続いちまうんだよ。お前みたいなのがまだ野放しになっていると、特にな……!」
 そして言うや否や腕を素早く抜き放つと、暗闇を引き裂くように一筋の閃光が走る。
 よく見ればそれはぼんやりと光る札であり、街灯の明かりが届かぬ最も暗い部分へと一直線に向かっていく。
 直後にはそこから何か声のようなものが聞こえ、わずかに何かが動いたようにも見えた。
 そして暗闇の中に溶けるようにして札が吸い込まれていったのだが、その後には何の反応も起こる事はない。
 掻き消えたように札だけがなくなり、後には変わらず黒一色の面が広がるばかりとなっている。
「ちっ……! 届きもしないか……」
 目付きの鋭い男もそれから何かを察したのか、後を追うように躊躇なく駆け出していく。
 そのまま男が闇の中へ突っ込んでいった後はそこには動く者もなく、ただ静けさばかりが残り続けていた。

「ふぅ……。今日も疲れた。料理するのも面倒だし、何か買って帰ろうか……」
 時刻が夜を過ぎてもなお明かりの絶えない街中にあって、一人の青年が自分で肩を揉みながら呟いていた。
 歩く行先や周囲にも人の姿が多くあり、様々な声や音で満たされた辺りの雰囲気は充分明るさを保っている。
「ん……? この感覚……。まさか、またあれが……! くっ……」
 だがにわかに青年の表情が曇ったかと思うと、辺りを見回してからいきなり走り出す。
 いきなりの行動に驚く人の目も気にせず、それから青年は建物の間にある路地へと駆け込んでいった。
「はぁっ、はぁっ……。はぁ、ふぅ……。こ、ここまで来れば……」
 そして息を切らせながらも何とか走り抜いた青年は、様子を窺うように辺りを眺めていく。
 そこは入り組んではいるが物に溢れている訳でもなく、薄汚れている訳でもない。 単にどこにでもあるような路地であり、特筆するようなものも見当たらなかった。
「ん……。何だろう、ここは……。こんなに高いビル、ここら辺にあったかな」
 だと言うのに行けども行けどもビルの合間は続き、無機質で冷たい鉄の壁はどこまで行ってもなくならない。
 この時になって夜風も肌に染みるようになり、冷え切った脳内には不安や困惑といった感情ばかりが募っていく。
「何だ、ここ……。こんなの、有り得ないだろ……」
 そんな青年が思わず苦悩の呟きを漏らしていると、ふと見上げた視界の中にある何かに気付いた。
 それはとあるビルの上階にある一室であり、そこには微かだが明かりが灯っているのが見える。
 周りを建物に囲まれてまともな明かりなどほぼ望めない場所にあって、それは見かけ以上に明るく輝いているかのようだった。
「た、助かった。誰かいるなら道を聞こう。こんな所、もうさっさと出てしまいたいよ……」
 青年もそれを見るとほっとした表情を浮かべ、少し軽くなった足取りでビルの方へと向かっていく。
 幸いにもビルの入口は完全に開かれており、青年はさしたる苦労もなく内部へと入り込めた。
 何故かエレベーターが停止していたために階段を使わざるを得なかったが、希望を見出せた身にとっては大した労苦とはならない。
 青年は二段や三段飛ばしで階段を登っていくと、ほとんど時間もかけずに目的の階へと到達していった。
「えっと、電気がついていたのは……。この階……。だった、はず……」
 しかし階段から一歩足を踏み出した瞬間、青年は前方にある風景を見て思わず絶句してしまう。
 確かに外から見えていた明かりはあったが、それはフロアの中央辺りに粗末な時代遅れの電球が一つあるだけだった。 おまけにそれは消えかけで、点滅を繰り返す様は非常に危うく思える。
 そのささやかな明かりが照らすフロア自体も薄暗く、雑多な物で溢れ返った辺りはどう言い繕っても廃墟にしか見えない。
 しかも奥へ向かう程に濃さを増す暗闇は、どれだけ目を凝らしても端まで見通す事は決して叶わなかった。
「やぁ、いらっしゃい」
「わぁ!」
 そんな時、不意に聞こえてきた声に青年は体が跳ね上がる程に驚きの反応を示す。
 振り返るとそこに立っていたのは一人の少年であり、学生服を着てはいるがその外見はどう見ても小学生くらいにしか思えなかった。
「き、君は……」
「僕? 僕についてはどうだっていいよ。もちろん君についてもそれは同じ。間違っても自己紹介なんかしないでいいから」
 とにかくいきなりの事にまだ青年が戸惑っていると、少年が矢継ぎ早に言葉を放ってくる。
 どこか異質な場所にあって少年が纏う雰囲気もまた独特であり、相手に与える迫力は見た目以上に確かなものだった。
「え……」
 そのために青年も思わず言葉を失い、未知のものから距離を取るかのように体は自然と後ずさってしまう。
「それにしても……。本当に綺麗だね」
「え? は……?」
「あぁ、勘違いしないで。君に言ってる訳じゃない。君の、すぐ側にいる人の事さ」
「……?」
「まぁ君には見えないだろうけど。彼女は間違いなくそこにいるよ。そして、少し訂正させてもらおうか。もう彼女は、人ではなくなっていたんだよね」
 一方で少年は相変わらず飄々としたまま、青年のやや後方の辺りをじっと見つめている。 平然とそこにある何かを評する様は、まるで絵画や壺といった美術品でも眺めているかのようだった。
 異質な場の中にあって、その落ち着きや堂々とした様はより際立つ異常さへと変換されて仕方がない。
「な……。何なんだよ、もう……。どうなっているんだよ、これは……」
 そんなものと相対する青年は片手で頭を抱えると、そう言いながらさらに後ずさっていく。 すでに自分が暗がりの広がるフロアに入り込んでいる事さえ、当人は気付いていない様子だった。
「何をそこまで怯えるんだい。ひょっとして僕が怖いの? 君より体が小さく、どう見ても力も弱い。何の武器も持たないし、君と敵対している訳でもない。なのに、何でさ?」
 少年はその様を眺めていると、心底不思議そうに尋ねかける。 感情の乗らない顔つきは、ただ純粋に疑問だけを思い浮かべているかのようだった。
「そんなの、分からない……。でも、とにかく嫌なんだ。君と話しているのも……。君に、見られている事さえ……」
 対照的に表情をひどく歪める青年はそれからも後ずさり、やがてフロアの中央辺りにあった電球の下まで辿り着く。
 上方からわずかに灯される光は周りにある影や闇との境界線を作り出し、そこだけが周りから隔絶された唯一の場所であるとはっきりと示しているかのようだった。


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