第11話 闇


「くぅっ……!」
 ツクハは薄ら寒い印象を抱くと同時に最大限の警戒を込め、改めて気を引き締める。 いつでも闇の紋様の力を使えるようにして、万全の態勢を取ったはずだった。
 だがそれを嘲笑うかのように、ユウエの体には青い紋様が鮮やかに輝いていった。
 その瞬間、ツクハの頭上には青い紋様で縁取られた四角い平面が現れる。 さらにそれと似たものが、足元にもほぼ同時に現れる。
 ツクハは一瞬にして、水の紋様の力によるとおぼしきものに挟まれる形となっていた。
「……!?」
 異様な事態にツクハはすぐに気付くが、その時にはもう遅かった。 頭上にある平面からは、勢いよく水が降り注いでくる。
「くあぁぁっ……」
 それによってかなりの重量の水を直接受け止める格好になり、一気に床に倒れ込んでいく。
 そして際限なく落ちてくる水は、床に現れた同じような平面に吸い込まれていった。
 頭上の平面からは延々と水が降り注ぎ、それらは下の平面によってどこかへ消えていく。 まるで紋様の力によって不思議な空間で繋がり、水が永遠に循環しているかのようだった。
 言うなればそれは水で出来た牢屋のようなものであり、ツクハはそこに磔にされていた。
「うぅぅっ、あぁぁぁぁ……」
 水の重圧で床に縫いつけられているツクハの口からは、苦悶の声が漏れている。 それは思わず耳を背けたくなる程のものであり、改めて水の牢屋に込められた紋様の力の強さを実感させられる。
「ぐっ、うあぁぁぁぁっっ……」
 しかし何とか歯を食いしばると、抗うために体に力を込めていく。 素体の体の強さは並大抵のものではないため、わずかだが上半身は浮かび上がっていった。
「ああうっっ……!」
 それでも水の勢いも半端ではなく、重さに耐えかねて体は再び床に押し付けられてしまう。
「くうぅぁぁぁぁっ……」
 ツクハはそれから起き上がるどころか、身動き一つ取れなくなってしまった。 さらに傷が塞がり切っていなかったのか、体からは少なくはない量の血が噴き出していく。
 背後にいるサニもまだ動ける状態にはなく、ユウエが止めを刺そうと思えば二人を同時に始末する事も出来る。
 二人は確実に危うい状況に置かれ、いつ命を絶たれてもおかしくはなかった。
「無理しないでください。そのままだと手足が千切れてしまいますよ?」
 ユウエはそれからあがくツクハに対し、笑顔のままでとんでもない事を口にする。
「どうですか、ツクハさん。もう止められてはいかがです〜? 命がなくなっては元も子もないのでは〜?」
 さらに馴れ馴れしく名を呼ぶと、それとなく諭そうとしていく。 どうやら負けを認めれば、すぐにでも水牢は解除されるらしい。
 口調はあくまで軽いままだが、実際にやっている事はえげつない。 このまま意地を通していれば、ユウエが言っていた通りに命すら失いかねなかった。
「冗談じゃっ、ない……!」
 だがここに至ってもなお、ツクハの決意は少しの揺らぎも見せていない。 血と共に言葉を吐きながら、まだ体に力を込めようとしていた。
「ここで止めるくらいなら、死んだ方がましよっ……!」
 そして苦悶の表情を浮かべながらも、少しずつ顔を上げていく。
「た、例え……」
 水によってまともに効かない視界の向こうには、ある人物の姿を見えていった。
「どれだけ、困難でも……」
 視界の先には、一人の大人の男がいる。 さらにその傍らには、幼い子供が寄り添うように立ってもいた。
 どちらも顔の辺りがぼやけていて、どのような人物なのかは判別が難しい。 さらにそれらは、ツクハにだけ見えていた幻のようだった。
 しかしそれでも、いやそれだけでツクハを激変させるには充分のようだった。
「あの人との約束を……。私自身の願いを叶えるためなら……」
 これまでどれだけ力を込めても動かなかったツクハの体だが、今になって状況は変わっていく。 自身でも信じられない程の力がみなぎっているのか、そのおかげで水の中でも少しずつ体を動かしていく。
 常人なら動く事すら叶わない水の牢獄の中、何と膝をつくまでになっていた。
「な、何があろうと……。どうなろうと構わないっ……」
 だが体には、相当の負荷がかかっているのは想像に難くない。 体を通り過ぎた水は赤く染まり、各所からは骨がきしむ音が響いてくる。
「わ、私は……。絶対に諦めたりなんかしない……!」
 頭から流れる血のせいで右目は真っ赤に染まり、霞んだ向こうはほとんど見えていない。
 抱く決意も並大抵のものではなく、本当に手足が千切れても構わないと思っているかのようだった。
「今度こそは、絶対に……!」
 やがて体には闇の紋様がほぼ全身に渡って浮かぶと、輝きはいつも以上に増していく。 その影響からか、ひどい状態だった傷は見る見る内に塞がっていった。
「これは……。同化が深まったようです……!」
 水龍はその意気込みと姿を目の当たりにすると、思わず驚きの声を上げていく。
「凄い……。あの状態から持ち直すなんて〜」
 それはユウエも同様であり、驚きと共に困惑を深めていた。
 そんな中でもツクハの動きは止まる事はなく、むしろ勢いを増していた。
 同化の深化に加え、素体の元々の身体能力もあって回復量は凄まじい。 本来なら再起不能の傷もあっという間に治し、水の牢獄を今にも抜け出そうになっていた。
「ほぅ……」
 闇龍は離れた位置から眺めつつ、小さく声を漏らしている。 姿勢もやや前のめりになり、興味深そうに眺めているようだった。
「ですが……」
 しかし次の瞬間、水龍が発した声は暗くどこか悲しげだった。
「えぇ、あれが限界のようですね〜」
 隣にいるユウエの声も弾まず、どこか哀れみが含まれているかのようだった。
「えっ……?」
 それに呼応するかのように、ツクハの体からは一気に力が抜けていく。
 後少しで水の牢獄を抜け出る事が叶いそうだったが、今度は水の勢いに押さえつけられてしまう。 そして激しい音と共に、そのまま床に叩きつけられるように沈んでいった。
 どうやらツクハの体は、自分でも気付かない内に疲弊し切っていたようだった。
 それはサニと似たような症状であり、普段のツクハなら気付けたかもしれない。 だが冷静さをなくした状態のために、直前に醜態を見ていたにも関わらず己の我を貫き通そうとしてしまう。
 そのために体には不意に限界が訪れ、それ以上は一歩も動けなくなってしまったようだった。
「……」
 ユウエはこれ以上の拘束は必要ないと判断したのか、水の牢獄を解除していく。
 上下に現れていた平面は姿を消し、それによって大量にあった水も全く姿を見せる事はなくなっていた。
「あぁ、あぁぁっ……」
 その頃、ツクハは愕然とした表情のまま床を見つめるしか出来ずにいた。 もはや意思の力ではどうにもならず、どれだけ願おうと現状は変わらないようだった。
「ちっ……。せめて壊れるまで動けばいいものを」
 闇龍は露骨に失望の意思を示し、声を潜める事もなく呟いていく。
「何で……」
 しかし今のツクハにはそれすらも届かず、全く余裕がないように見える。
「私に役立てる事なんて、ほとんどないのに……。私はこれくらいしかしてあげられないのに……」
 信じられないといった様子で目は見開かれ、声は段々と震えていった。 さらに涙もこぼれ落ち、水が満ちた床の上に一滴ずつ落ちていく。
「それなのに、どうして……」
 それでも口から嘆く声が絶える事なく、憂いが消える事もなかった。
 すでにツクハが戦闘行動を持続させる事が不可能に近いのは、誰の目から見ても明らかだった。
「同化とは、一人の意思では出来得ないもの。互いに信じ合う、信頼する気など初めからないのでは無理からぬ事でしょう」
 だからなのか、水龍はひどく落ち着いた声を響かせていく。 わずかに批判の意思が含まれているようで、視線は闇龍の方へ向けられていた。
「ちっ……これだから素体に意識など必要ないのだ。龍のためだけに作られた器の分際で、逆に俺の足を引っ張り続けるとはな……」
 だが闇龍は言葉や視線など一切を受け付ける事なく、ひたすら悔しそうにしている。
 先程にサニにしたように、もしかするとツクハをも見限ろうとしているのかもしれない。 単なる怒りだけではなく、憎しみすら込められた視線からはそう感じられた。
「あなたの立場から見ればそうかもしれません〜。けれど、ツクハさんからすれば果たしてどうなのでしょう〜?」
 だがその時、底抜けに明るいユウエの声が響く。 言葉は明らかに闇龍に向けられているが、顔は相変わらず笑顔のままだった。
「何だと……」
 闇龍はそれを聞いた瞬間、苛ついたような表情を浮かべる。
「ツクハさんの気持ちすら考えられず、自分の我を通す事しかしてこなかったのであれば〜。力が足りぬのは、あなたにも責任があるのでしょうね〜」
 ユウエの言葉は明らかに批判であり、迷いや躊躇いは見られない。 自分にとっては敵のはずだが、いつの間にかツクハを擁護する立場へと変わっていた。
 何故そうしたのかというと、先程の一心不乱に頑張る態度を見たからなのかもしれない。 確実な事は分からないが、ユウエはツクハや闇龍に対する印象を同時に改めつつあるようだった。
「ぐっ……。お前、器の分際で……! 何をしている、ツクハ! さっさとあの愚物を始末してこい!」
 一方で人間に面と向かってあぁまで言われたのが、余程腹に据えかねたようだった。 激昂すると同時に闇の紋様を輝かせると、無理矢理にでも動かそうとする。
 どうやら闇龍はツクハの体がどうなったとしても、ユウエを倒すつもりのようだった。
「うぅっ……。あなたに言われなくても、そのつもりよ……!」
 ツクハはその直後、命令されたからと言うよりは自らの意思で動こうとする。 まだ体はまともに動かないが、ほんのわずかでも時間を置いたからか少しは楽になったらしい。
 それでも壊れかけの人形のように腕や足をだらんと垂らしたまま、痛みを覚えながらも鞭打つようにして起き上がっていく。
 そして歩くというよりも全身を引きずりながら、前に進もうとする。 しかしその姿からは哀愁を誘い、誰の目に見ても勝負にならないのは明らかだった。
「く、うぅぅっ……」
 だがツクハは大量の出血を伴いながらも諦めておらず、尽きぬ闘志と共に前に進み続けていた。
「いけない。ユウエ、止めて下さい」
 それを見て、何故か水龍の方が取り乱したように声を上げる。
「私は構いませんが〜?」
 ユウエは不思議そうな声を上げつつも、水の紋様の力を発揮させる。
 ただし武器の類は作られず、手の形をした水が何本も床の水溜りから生えていく。 それらはツクハを捕えて大人しくさせるための、言わば拘束用として作り出したものに見えた。


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