第10話 風


 だがその直後、その他の全ては前触れなく掻き消えていく。
 その後に残ったのは、白い空間でこちらに背を向ける木龍の姿のみだった。
 木龍は何故か何も言わず、こちらを向こうともしない。 その姿を見ていると不意に、龍にはなれないという焦燥感が溢れ出てくる。
 それと同時に手に入るはずのものが手に入らず、目の前から消えていくという喪失感も生まれてきた。
 すると直後には唐突に、そこにあったものが全て別の光景へ塗り潰されていく。
 辿り着いたのは延々と雨の降り続く森の中のようで、雨音に混ざって誰かの泣き声がずっと続いている。
 よく見ればそこにいるのは今より幼いサクであり、何が悲しいのかずっと泣き続けていた。
「あれは違う……。違うんだ……!」
 それを認識した途端、現実のサクの様相は一変する。 まだ頭の内に残っていた様々な不純物は、一切合切が瞬時に吹き飛ばされていく。
 どうやら新たにサクが宿したその強い思いは、それまでにあったものとは比べ物にならないようだった。
 体に浮かぶ紋様にも激しい変化が起こり、その輝きは今までに見た事のない程の強さとなっている。 その範囲も手や腕だけには留まらず、サクの上半身は紋様で覆い尽くされていた。
 そして辺りが緑色の輝きで染め上げられる中、今にも刀が邂逅を果たそうと迫ってくる。
 その次の瞬間、刀がサクに届いたと同時に何故かやけに固い音が響き渡っていった。
「何だと……!」
 シンはその音に違和感を覚え、さらに自身に伝わってきた今までにない衝撃に驚いているらしい。
 刀を持つ手は若干震えたまま止まり、そのまま何にぶつかったのか注視しようとしていった。
「……」
 サクからはすでに紋様も、そこから放たれる輝きも消えている。 ただしその目は細まり、何かを悟ったかのように表情は静まっていた。
 そしてそんなサクの腕には分厚い木が幾重にも巻き付き、刀はそこにしっかりと食い込んでいる。
 腕の部分は木によって見た目がかなり変わっており、まるで初めから木で出来ているかのようだった。 さらにそれは堅固な盾と同等なくらいの強度でも持っているのか、鋭利な刀身を完全に防ぎ切っている。
「こいつ……。何が起きた。さっきの緑色の光は……」
 それを見たシンはようやく声を絞り出し、次に力を込めて木の腕から刀を引き抜いていく。
「……」
 サクはその時の衝撃に体を揺らしつつも、何も答えずに無表情なままでいる。 その目の色は腕と同じく大きく変化し、まるで紋様のような緑色の輝きを発していた。
 サクの姿はほんの少し前とは完全に様変わりしており、纏う雰囲気は異様と言ってもいい。
「不完全な龍化、か。人と龍の中間で感情が安定し、力が増幅する。どうやら命の危険を目の前にして目覚めたようだな。もう少しだぞ、サク……」
 しかし離れた位置から見つめる木龍に動揺はなく、険しい表情をしつつもどこか満足げだった。
「ふっ……!」
 その直後にサクは短く息を吐いたかと思うと、いきなり前に向かって動き出していく。
 それと同時にすでに自由になった腕に力を込めると、まだ唖然としている相手に攻撃を仕掛けていった。
「っと……。くぁっ……! このっ、いきなり積極的になりやがって……!」
 対するシンはそれを身を捻って避けるも、その後も続く連続攻撃に圧倒されてしまう。
 それでもシンはその全てを避けるか、あるいは刀で弾く事に成功している。
 ただし相手の躊躇のない激しい動きに翻弄されるようにして、段々と後ろに追いやられつつあった。
 一方で攻勢に転じたサクの目は鋭く、動きも明らかにこれまでと違う。 その姿にかつての明るさや無邪気さなどは微塵もなく、その身には冷酷さだけしか持ち得ていないかのようだった。
「ちっ……。何だ、こいつ。感じが変わった……?」
 シンも相手がつい少し前とは雰囲気が違う事に気付くと、素早く距離を取ろうと試みる。
 対するサクはそこで深追いなどをする事はなく、向こうの出方を窺うかのように留まっていった。
「これじゃあ、さっきまでとは別人じゃねぇか。ったく、まるで訳が分からねぇ……」
 それからシンは刀を右手に持ち帰ると、左手を前に向けてゆっくりと開いていく。
 次にこれまでよりも広い範囲に紋様が浮かぶと、手の辺りには風が渦巻くようにして集まっていった。
 同時にその周囲でも風が吹き荒れるようになり、シンはそれすらも手の内へと集中させていく。
「……!」
 一方で吹き荒れる風をその身に受けながら、サクはそれに負けずにただ前を向いている。 風によって砂が巻き上げられ、顔や目にしきりに当たろうともそれに変わりはなかった。
 そのあまりに淡々とした様は今までの性格などからは考えられなかったが、現在のサクからすればごく普通らしい。
 それからもわずかに目を細めつつも、ひたすら前の方を警戒するように眺めていく。
「よっし……。もう、いいだろう……」
 丁度その頃、風の中心地ではシンの方に動きが見られた。
 風の力が充分に高まったのを実感すると、今度は風の集った左手を刀の方へと向けていく。
 すると風は刀の形通りに滑らかに伝わり、激しく渦巻きながらなおも力を高めていった。
「ちょっと調子が出てきたからって図に乗るなよっ。これでもっ……。食らいやがれ!」
 そしてそう言って刀を両手で支えると、わずかに抱え辛そうにしつつも体全体を使って振るっていく。
 風を巻き付ける刃は真っ直ぐに振り切られると、そこからは凄まじい量の風が放たれていった。
 それはこれまでの倍以上の大きさを持ち、単純に見た目だけで判断しても半端ではない威力を予想させる。
「いいや、そんなものは必要ない。それより、お返しだ……!」
 だがサクは風で髪や服がいくら揺れようと、心は全く動揺していないらしい。 すでに自身に向かってくる力を迎え撃つため、体に輝く紋様の全ての力を総動員しようとしていた。
 やがてサクの目の前の地面から現れた木は、これまで以上の速さで成長してシンの方へと伸びていく。
 その先端は槍の穂先を思わせるまでに尖っており、相手を突き刺そうと進み続けていった。
 そして両者のちょうど中間で、互いに向かっていく木と風が激突していく。 正面同士でぶつかった二つの力は拮抗しながら衝撃波を生み出し、空気を派手に震わせていった。
 ただしそれもわずかな間だけで、最終的には風のほとんどが木によって打ち消されていく。
 そして現時点では木の力の方が風より上回っていたのか、なおも勢いを弱める事はない。 それどころかなおも自身を増大させながら、ただシンの方へと向かっていった。
 とは言え風の力も、単純に負けた訳ではないらしい。 一見すると消えたように見えていたが、実際にはいくつかに細かく分かたれていただけのようだった。
 それらは不規則ながらかなり速く動き、複数の方向からサクへと襲い掛かっていく。
「うっ……!」
 サクもそれらを避け切れないと判断したのか、即座に身を固めてやり過ごそうとしていった。
 その瞬間に体には紋様が輝き、全身を固めるように木が覆っていく。
 しかしそれが完成するより早く、隅々まで網羅する前に風の刃が到達してきた。
「ぐっ、うああぁっ……」
 そうなるとサクの体は風によって切り裂かれ、大小様々な傷が作られていく。 ただしその表情はあまり変化せず、緑色の瞳が閉じられる事はなかった。
 そして風の刃をやり過ごした後は、用済みとなった木の殻を捨て去っていく。
 その動作の最中には体に出来た傷から、真っ赤な鮮血がぽたぽたと地面に何滴も落とされていった。
「この程度、何でもない……!」
 サクの表情はその時の痛みによってわずかに歪むも、退く様子はまるでない。 むしろより態度を強硬にすると、前方をきつく見据えていく。
「ちっ、これはちょっとやばいかっ……!?」
 その先にいるシンは自身より遥かに大きい木の圧迫感に危機を感じたのか、そう言うと横に飛び退いていった。
 続けて地面を転がりつつ、何とか木の突進をやり過ごそうとしていく。
 だが木はその行動を予測していたかの如く、途中で枝分かれすると執拗にシンを狙い続ける。
 分かたれた事によって大きさは失いつつも、それでも並みの武器よりは余程威力がありそうに見えた。
「……!?」
 一方でシンは地面から中途半端に起き上がろうとしている体勢で、自分に木が向かってきている事に気付いたらしい。
 まだ驚きによって体は鈍っていたが、それでも諦めずに何とか再び避けようと試みる。
「ぐっ、あっ……!」
 しかし次の瞬間、木はシンの腹部の辺りを深く抉っていった。 あまりに強烈な痛みは意識が遠のき、気を失いかける程である。
 一方で木の勢いはそのまま失われる事なく、地面の方へと激しく突き刺さっていた。
「ぐぅっ……。しくじっ、ちまったか。これはなかなか、きっついな……」
 後に残ったのは傷口を手で押さえながら、ひどく歪んだ顔で苦悶するシンである。 その腹部からはなおも止めどなく血が溢れており、受けた傷の大きさを物語っていた。
 大量に出血するあまり地面は赤い水溜りが出来たかのようで、すでに完全に勝負がついたのは明白である。
 と言うよりも今の状態を放っておけば、遠からず命を失ったとしてもおかしくはなかった。
「これは……。もう痛みもないし、傷は完全に塞がっている。木もこれまで以上に自在に操れる。凄い……。これが、龍の力?」
 その頃、サクはシンの様を見て自分の傷の事をようやく思い出したらしい。 ただしいくら目を凝らそうと、わずかな傷跡が残るのみとなっている。
 代わりに体ではなおも紋様が輝きを放ち、さらに力が強まりつつあるのが実感出来た。


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