第10話 風


「……」
 男の子は自らが持つ特殊な力によって、風龍を己の中に封じ込める。 だがそれは体力を大きく消耗させたのか、意識を失ってしまった。
 川原に倒れ込んだまま、しばらく時が流れていく。 辺りには涼やかな水のせせらぎと、たまに吹いてくる爽やかな風の音がしてくるだけだった。
「すぅ、すぅ……」
 男の子は穏やかな寝息を立て、傍目には昼寝でもしているかのように見える。
 そんな時、今までにない強い風が吹きつけてきた。 風は側に生えていた木々を揺さぶり、髪の毛も吹く方向に流れていく。
 さらに木が揺れた拍子に枝についていた木の葉が、強い風に逆らえずに飛ばされていった。
「ん……」
 宙を舞った木の葉はその後、男の子の傷の治った頬に着地する。 それが刺激になったのか、わずかに声を上げると目を覚まそうとしていた。
「ねぇ、お婆ちゃん。さっきの、ものすごい風だったね!」
 さらにほぼ同時に、近くにある林からは明るい声が聞こえてくる。 喋っていたのは一人の少女であり、来た方向に振り返って後ろ向きになったままはしゃいでいる。
「うむ、そうじゃな。ん……?」
 さらにすぐ後ろからは、頷きながら見知らぬ老婆が姿を現した。 前を向いていたために男の子を見つけたのか、やや怪訝な顔をしている。
「あれぇ……?」
 そして少女も視線を追って前方に人影を見つけ、それから警戒もなく駆け寄っていった。
「これ、待ちなさい……!」
 老婆は慌てて後を追うと、二人して近づいてくる。
「どうしたの、大丈夫?」
 心配そうな顔をした少女は背を少し屈め、まだ地面に伏したままの男の子に話しかける。
「う、んん……」
 やがて声によって完全に意識を取り戻したのか、呻き声と共に体は起き上がっていく。 その時点で体には白い紋様は確認出来ず、普通の人間の子供のように見えていた。
「坊や、どこの子だい。名前はなんて言うんだ?」
 だからこそ老婆もあまり警戒せず、落ち着いて尋ねていく。
「分からない。僕は、何も分からない……」
 だが男の子は虚ろな瞳のまま、淡々と答えるだけだった。 真正面を向いていても目は何も見ておらず、大きな人形のようだった。
 そして元からなかったのか同化の時に失ったのかは分からないが、自分の記憶を失っているようだった。
「そうかい、でも名前がないのも不便だろう。仮の名前でいいなら、シンってのはどうだい? さっき吹いていたような、大いなる風という意味だよ」
 老婆は不憫に思ったのかそう言うと、励ますように肩に手をかけていく。
「……」
 男の子はそれに反応したかのように顔を上げ、ようやく二人の事をはっきりと認識したらしい。
「うん、それがいいよ! そうしなよ、シン! うふふっ、風の名前って格好いいね! びゅーん!」
 一方で少女は対照的に明るい笑顔を見せ、相手の同意も得ないままに楽しそうにはしゃいでいた。
「これ、レイナ……。む……?」
 老婆は騒がしい隣の方を諌めようかとも思ったようだが、一度開かれた口はまた閉じられていく。
 何故ならレイナが周りを楽しそうに駆け巡る姿を、男の子がじっと見つめていたからだった。
「シン……。僕は、シンなのか……」
 目は先程より開かれ、明らかに反応が強まった様子で何度も呟いている。 それは新たに得た名を、自分の中に刻み込もうとしているかのようだった。
 すでに先程までの儚げな姿とは違い、今は全身に力が宿りつつあるように見える。
 だからこそ自然と体は立ち上がり、この瞬間にシンという名を持った一人の人間が誕生したのだった。

「!」
 シンは驚きに目を見開くと、そのまま何度も目を瞬かせる。 今まで見ていたものは何だったのか、必死に自分の中で反復しているようだった。
「……」
 そしてその過程で何かに気付いたのか、はっとした表情をして固まっていく。 自分の見ていたものが夢ではなく、かつてあった出来事だと自覚した後は少しずつ落ち着きが戻っていった。
「思い出したか?」
 そんな時、頭上のやや後方からは得意げな声を出す風龍が現れる。 じっと見下ろしながら口元は楽しげに緩み、浮かべる笑みはとてつもなく邪悪なものに見えていた。
「あぁ、思い出してきた。俺はあの後、婆ちゃんやレイナと一緒に暮らすようになったんだ」
 しかしシンはまるで意に介さず、虚ろな表情で呟いていく。
「何も知らなかった俺はいろんな事を教えられて……。たくさんの数え切れない経験をして……。そう、あの頃は楽しかったな……」
 ただしやや儚げな雰囲気も言葉を発する内に段々と変わり、顔を綻ばせていく。 まるで昔を思い出すかのように目を細めると、笑みさえ浮かべていった。
 さらに言葉は風龍に向けてはいるが、決して振り返ったり見上げたりはしない。
 もしもそうすれば、風龍を現実のものとして認識せねばならなくなる。 絶対にそれだけはしたくないのか、ひたすら過去の思い出に浸る事を選択していたようだった。
「全く、俺様も迂闊だったな。素体如き、すぐに征服して体を取り戻せるかと思っていたんだが。まさか、こんなに時間がかかっちまうとはな」
 だが風龍はその姿を小馬鹿にするように笑い、苛立ちを隠さずに見下ろしていく。
「でも、俺は……。駄目だ、思い出せない」
 一方でシンはさらに過去を思い出そうとしているのか、頭に手を当てながら表情をどんどん険しくしていった。
「あの時、同化する前の俺の記憶……。本当の親や兄弟は? どこに住んでいたんだ? 俺は一体、誰なんだ……?」
 ただなかなかうまくいかないようで、苦しげに息を漏らしているだけだった。
「おい、いい加減にしやがれ。まだ分からねぇのか。お前は素体なんだ」
 やがて風龍も痺れを切らしたかのように、厳しい表情をして一喝していく。
 それと共に辺りには強い風が吹き荒び、土埃が舞い散っていった。
「くっ……」
 自問自答を繰り返していたシンも、ようやくこれが現実だという事を思い知らされたようだった。 腕を顔の前に出して土埃を防ぐと、風龍の方を見上げていく。
「お前は人によって作られた。だから、家族や家なんてものは最初からお前には無ぇんだよ。そもそも人じゃねぇんだ、お前は」
 対する風龍は忌々しそうに見下ろしたまま、鬱憤を直接ぶつけてくる。
「……」
 吐き捨てるように事実を突きつけられ、シンは呆然とするしかなかった。 口を開いたまま固まり、指一本すら動かせずにいる。
「あなたは人じゃない……」
 その時の脳内には、前日に言われたツクハの言葉だけが響いていた。
「人じゃ、ない……」
 シンはそれを繰り返すように、顔を俯かせて同じ言葉を呟いていく。 その瞬間の虚ろな表情はかつて、風龍と同化した男の子が見せていたものと酷似していた。
「ぁあ……」
 さらにそうなった事によって初めて、何かをはっきりと思い出していったようだった。

 脳裏に浮かんできた風景は何もない真っ白な部屋であり、そこには幼い男の子がたった一人で佇んでいた。
 何の音もしなければ、匂いや視覚的な変化がある訳でもない。
 侘しさが漂う部屋の中で何をする訳でもなく、ただ人形のようにそこに在り続ける男の子は不気味でしかなかった。
 しかし男の子には、そのような事さえ理解出来ていないらしい。 いつまでも身じろぎもせず経ち続け、虚ろな瞳は何も映してはいなかった。

「あそこは……!」
 次の瞬間にはシンは目を見開くと、大きく声を上げていく。 自分の脳内に微かでも残っていた記憶と合致したのか、相当な衝撃を受けているようだった。
「素体はほとんどがあそこで生産された。改良が進む度に用途は細分化されていったようだが、根本は変わってなどいない」
 そして風龍はようやく肝心な事を思い出したのかと言わんばかりに、説明を付け加えていく。
 どうやら先程の男の子のいた白い部屋や、素体などについても詳しく知っていそうだった。
「あぁ。記憶はまだはっきりとしねぇが、自分が何者なのかくらいは思い出せてきた……」
 だがシンは特に尋ねるつもりなどはなさそうで、静かに呟いているだけである。 力を込めて手を握り締めると、悔しげに自分の体を眺めていく。
 外見は普通の人間と何ら変わりはないが、素体に間違いないのは自分が一番よく分かっている。 それでもシンは現実を受け入れ難いのか、いつまでも表情を歪めていた。
「ならば言ってみろ。お前の役割とは何だ?」
 すでに揺るぎのない勝利を確信しているかのように、風龍は余裕に満ちている。
「龍をその身に収め、新たな肉体となる。俺は人なんかじゃない。ずっと初めから、器だったんだ」
 シンも体から力を抜き、手をゆっくりと開きながら下ろしていく。 その様子は納得したというよりは、諦め切ったという印象の方が強かった。
「ひひゃっはっはっは……! ようやく認めやがったか。だが、それでいい。これでようやく俺様は手にした。自身の完全なる力と、新しい体っ……」
 一方で風龍は嬉しそうに声を上げると、いやらしい笑みを浮かべていく。
 同時に辺りには不穏な空気が流れるようになり、シンの体にも紋様が浮かび始める。
「そう、今ここに風と器は再び出会ったんだ……!」
 次に風龍はシンの正面に回り込むと、出会った時と同じように顔を近づけて宣言していった。
 するとその瞬間に紋様は強く輝き、辺りには暴風というべき強い風が吹きつけていく。
「……」
 シンはそれを見つめながら、虚ろな表情となっていた。 体からは力がまるで感じられず、人ではない本当に器とでもいうべきものに変わり果てている。
 ただしほんのわずかに、数回だけだが口元が動いたように見えた。 最後に何かを呟いたのかもしれないが、それは風によってかき消されて誰の耳にも届く事はなかった。




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