第10話 風


「ここなら大丈夫だろう」
 やがて先頭を歩いていたトウセイは立ち止まると、そう言いながら辺りを見回していった。
 周囲は普通の山中に見え、どこもおかしな様子はない。 龍の気配はもちろん、人の気配も全く感じられない程であった。
「あのおかしな奴とは反対方向に来た事だし、後は……」
 だが静かな空間であっても、トウセイは気を緩める事はしない。 周囲に気を配りつつ、後ろの方に目をやった。
「あ、はい。光龍、お願い」
 センカは視線から意図するものを感じ取ったのか、さらに背後に振り返る。
「あぁ、他の紋様の気配はないようだ……」
 そこには応えるように光龍が現れ、周囲を探りにかかっていく。 ただしどこか心ここにあらずといった状態で、いつもより塞ぎ込んでいるようにも見える。
 先程に出会った風龍の事をずっと考えているのか、顔も伏されがちだった。
「光龍……」
 センカはその姿を見つめているが、もどかしそうに胸の前で手を握り締めるだけだった。
「そうか、ここは安全なのか」
 一方でロウは安堵した様子で、背負っているサクを下ろそうとしている。
 それからはセンカも協力して地面に大きめの布を敷き、その上に寝かせていく。
 未だに眠ったまま目を覚まさないサクだったが、ようやくきちんと休ませる事が出来そうだった。
「でも一応、周りの様子を確認してこようかな」
 しかしまだ安全が確約された訳ではなく、ロウはそう言いながら辺りを見回している。
「ならば俺も行こう」
 トウセイも賛同するかのように言うと、すでに動き始めている。 何かをしていないと落ち着かないのか、刀にも手をかけていた。
「助かるよ。じゃあセンカ、サクの事は頼んでいいかな?」
 頷きながらそう言うと、ロウもそう言って歩き出す。
「はい、ロウさん達も気をつけて下さいね」
 センカは眠るサクの側に座り込んだまま、二人を穏やかに見送っていく。
 こうして役割分担は終わり、ロウとトウセイは周囲の警戒に向かっていく。
 一方でセンカはサクの看護をするため、風の音さえしない静かな場所に残り続けていた。
「……」
 サクが仰向けに寝かされてから、すでに幾らかの時間が経過していた。
 それでも起きてくる様子は一向になく、周りの環境にも何の変化もない。 頭上からは太陽の光がさんさんと降り注ぎ、白く大きな雲が流れていく。
 山の中でも気候は安定していて、木陰もあるためかなり過ごしやすかった。
「サク君。何であんな無茶な事をしたんですか? もしもあのまま戦っていたら、無事では済まなかったかもしれないんですよ……」
 だがセンカはそのような静寂な空間にも関わらず、一人で表情を暗くしている。 間近から見下ろすと、口からは不満の声が漏れていく。
「……」
 しかしサクは何も答える事はなく、まだ眠り続けたままだった。
「ふぅ……」
 普段ならこちらが話しかけなくとも一人で騒いでいるというのに、今の状態はまるで違う。 センカはそれを見ると、疲れたように溜息をついていった。
 そしてサクの額の上に乗せていた、濡らした手拭いを取り換えようとふと手を伸ばす。
「僕は龍になる、完全な存在になる……。そのために戦うんだ……」
 やがて手が手拭いに届く直前、サクの口が不意に小さく動き出していった。
「サク君! 意識が戻ったんですね!」
 センカはそれに驚くと共に嬉しそうな表情を見せ、そのままの姿勢で動きを止めていた。
「これは、龍になるための試練なのさ……」
 サクは仰向けのままそれを見上げ、静かに呟いていく。 ただしまだ調子は戻らないのか、消え入りそうなまでに小さな声で喋っていた。
「龍に……? でも、なぜ龍になろうとするんです? 龍になるという事は、人ではなくなってしまうという事なんですよ……」
 センカも心配そうにしているが、まずは発せられた言葉の方が気にかかったらしい。 言う事に賛同出来ないのか、表情を曇らせたまま問いかけていく。
「だって、人じゃ駄目なんだ。何も守れない、何も救えない。そこに本当の自由なんてない……」
 サクはそれに答えながら、段々と語気を強めていく。 途中で顔をしかめつつも、体には力を込めて起き上がろうとさえしていた。
 自然と頭も持ち上がり、乗っかっていた手拭いも下に落ちようとしている。
「あ、サク君……」
 センカは空中でそれを受け止めると、そのままサクの体を支えようとしていく。
「人の持ちうる程度の力じゃない、もっと絶対的な……。言葉に出来ない程の圧倒的な力……。僕はそれが欲しいんだ。それくらい、誰だって望むだろう……?」
 すでに体のふらついていたサクは支えられる事で、何とか姿勢を維持していた。 目は焦点が合っておらず、うなされたように喋り続けている。
「僕は家族に恩を返したい。あの時僕を助けて、家族に迎えてくれた皆を……」
 その状態は誰の目から見ても異様であり、いつもの姿とはかけ離れている。 確かに自身の願いを語っているようではあるが、まるでいつものサクの言葉ではないようだった。
「皆って、サク君がいた屋敷にいた方達の事ですか?」
 だからこそセンカも心配そうな様子を隠さず、手拭いで汗を拭きながら問いかける。
「そのためには龍でなければ駄目なんだ。僕ではなく、龍でないと駄目……。駄目、なんだ……」
 サクは無言で肯定の意味の頷きをした後、それからも同じ事を言い続ける。 その姿からは心中に持つ、龍への飽くなき渇望が覗いて見えた。
「そうですか……。サク君はそのために木龍と同化していたんですね。でも、力だけあればサク君の望みは叶うんでしょうか?」
 だがセンカは本当に強い望みや、成し遂げたい事が分かっても理解は出来ないようだった。 険しい顔のまま問いかけると、相手の目をじっと見つめていく。
「え……」
 サクはそれに対して目を丸くし、驚くような反応を見せていた。
「私にはよく分かりませんけれど、力だけじゃ駄目だと思うんです。サク君の望みのためにはきっと、別の何かがいると思うんです。あまりうまくは言えないのですが……」
 センカは変わらぬ姿勢のまま、自分の思いを真っ直ぐに伝えようとする。 ただ最後の方では言葉に詰まり、苦笑していった。
「……」
 それでもサクには何かがはっきりと伝わったようで、考え込むように真剣な表情をして俯いていく。
 辺りには自然と言葉が途絶え、音のない静寂な空間が戻ってきた。
「あ、とりあえず今はゆっくりと休んでくださいね。このままじゃ龍になる前に体を壊してしまいますよ」
 センカは少し気まずそうに微笑むと、そう言いながらサクを少し無理矢理にでも寝かせようとする。
「うん……」
 どこか浮かない顔をしたサクもあまり抵抗せずに、そのまま横になって体の辺りに布をかけ直されていく。
「じゃあ、私は……。温くなっちゃいましたし、これを洗ってきますね」
 いつもと違ってほとんど手のかからない大人しい姿を見ると、センカも少し戸惑っているようだった。 それでも特に冷やかすような真似はせず、手拭いを手に取ると立ち上がる。
 さらに最後にもう一度だけじっと見下ろした後、センカはすぐ近くを流れる川の方へと歩いていった。
 ロウやトウセイのどちらもまだ戻ってきておらず、その場にはサクが一人だけ残される。
「ゆっくりと、か。もう傷なんて治っているのにね……」
 次第に遠ざかっていく背中を眺めつつ、サクは自分の腕を眺めていく。 そこには少し前までいくつもの傷があったはずだが、今はどこにも見られない。
 ほんのわずかな傷跡すら残っておらず、血が乾いた後が幾らか確認出来る程度だった。
 傍目には無事なままの体がそこにはあり、サクはじっと見つめ続けている。
「ねぇ、木龍。これも龍の力によるものなの?」
 しかし不意に青く抜けるような空に視線を移すと、淡々と問いかけていく。
「あぁ。傷は出来てもすぐに治り、龍の力も身体能力も著しく向上する。より強く、より賢く。人を完璧な生命体に生まれ変わらせる」
 疑問の声に対し、空を遮るように木龍が現れて淡々と答えていった。
「あとさ、変化するのはそれだけじゃないよね。あの時、僕は力を使うのに何の躊躇いもなかった。相手が死んでしまうかもしれなかったのに、何も感じなかった……」
 サクはぼうっとしたまま聞いていたが、ゆっくりと口を開いていく。 少し前にシンと戦っていた時の事を思い出したのか、体は身震いをしている。
 自分の体のはずなのに自由に制御出来なかった事が、今になって恐ろしく感じられてきたようだった。
「それが龍。抑制された感情、完璧な肉体……。そして、圧倒的な力。それらを持ち合わせた完全な生命体なのだ」
 木龍は大した反応も見せず、感情を抑えたまま言い返していく。 わずかに誇らしげな様子を見せつつも姿は威厳に満ち、言葉には事実に裏打ちされた自信が垣間見えていた。
「そうなんだ……。でもそうだとしたら、龍になったら心をなくしてしまうって言うの……?」
 だがサクにとっては納得がいっていないのか、不満気に呟いている。
「何に対しても顔色一つ変えない。誰に対しても躊躇なく力を振るう。それじゃあまるで、理性を失くした獣みたいだよ……」
 表情を歪めながらもそう言うと、じっと見据えたまま起き上がっていった。
「そもそも、お前の憂慮する人らしさなど龍にはいらない。だが、決して感情がない訳ではない。あくまで合理的な思考をしているというだけだ」
 木龍はそれに対し、あくまで淡々とだが反論するように呟いていく。
「例えば多くを救うために少数を切り捨てると言った場合に、躊躇いなど見せはしない。単に人で言う所の情というものがないだけだ」
 静かに諭すように告げる様は、龍という存在そのものを理解させようと試みているかのようだった。


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