第9話 水


 ロウ達が霧に包まれてどこか分からない場所で不思議な体験をしていた頃、直前までいた屋敷の中では逆に霧が晴れつつあった。
 ほとんど元の状態に戻ったそこはもう普通の部屋と何ら変わらず、先程のような異変が起こる気配は欠片もない。
 ただし人がいなくなった今、残っているのは紛れもなく普通ではない存在達だった。
「ふふっ……。こうして顔を突き合わせるのも随分と久しぶりですね」
「あぁ、懐かしいな。あの時に別れて以来だからもう何年になるか……」
 穏やかに話す存在は目を細めながら微笑み、対する光龍は相手と知り合いなのか親しげに接している。
「さぁ……。体を失ってからはもう、時の感覚すらなくなりましたから……」
 やがて応じる存在も懐かしそうに呟くと、ふと目を閉じていく。
 その周囲はまるで屋外のように水気に満ち、空気もかなりの湿り気を帯びていた。
 わずかに残った霧によって姿は隠れ、呟きが聞こえてくるのもその向こうからである。
「……」
 そんな時、側にいる木龍はわずかに顔をしかめたままでずっと黙り込んでいた。
「ところで、すでにお前も気付いているのではないか?」
「……闇龍の事についてですか?」
 一方で光龍は他の話を切り出し、何者かも深刻さを感じ取ったのかやや声の調子を落とす。
「そうだ、あいつは何かを企んでいる。関係しているかは不明だが、土龍や火龍など他の龍も暴れ始めている。とても平穏とは言えぬ状況だ……」
「彼等はとても人を恨んでいましたからね。言葉で止めようとしてもまともに聞くつもりはないでしょう」
 続けて両者は深刻な様子で話し込むも、霧の向こうにいる相手はいまいち反応が鈍い。
「だがこのまま放っておけば、いずれ取り返しのつかない事になる。もうあの時のような事は、絶対に避けなければならないというのに……」
 それとは対照的に光龍の方は顔をしかめ、目には力を込めている。 古い記憶がよぎる中でそれを後悔しているかのような表情を浮かべつつも、すでに気持ちは切り替わっているようだった。
「その気持ちは私も一緒です。しかし私達が不必要に介入する必要はあるのでしょうか? 元はと言えば原因を作ったのは、人間の方でしたし……」
「それは、そうなのだが……」
 やがてどちらともなく言葉が途切れた室内では、ただ静かな時間だけが流れていく。
「人も一枚岩ではない。確かにあの時に暴走したのも人間だが、それを止めようとしたのもまた人間だ……」
 そんな中で、これまで何も言わなかった木龍がいきなり口を開いていった。
 すると光龍達はその言葉を聞いた途端、そちらへと関心を寄せていく。
「我等にはどれも同じに見えても、あれはそれぞれが異なる生物だ。勝手に一緒くたにして、全てを滅ぼしていいはずがない……」
 対する木龍はどちらの視線も見返す事なく、淡々と自分の考えを述べている。 その強い口調には、どこか実感が込められているようだった。
「そうだな、あいつ等を見ていればそれはよく分かる。見た目は同じように見えても、内面は全く異なっているのだからな」
 次いで光龍も同意するように頷くと、目を細めながら何かを思い浮かべている。
「ふふっ……。お二方は随分と人間に入れ込んでおられるのですね」
 一方でじっと聞いていた何者かは、不意に笑い声をこぼしていく。 例え霧の向こうにいるとしても、声を聞けば好ましい感情を抱いているのが何となく分かった。
「そうか……? 特に贔屓しているつもりはないのだがな……」
「えぇ、あなた方はかつてとは全く違います。ただしそれは私も同じなのでしょうが……」
 光龍はそれに気付くと戸惑うような反応を浮かべ、何者かがそれに応じていくと同時に周囲の霧が動き出していく。
「では……?」
「はい。及ばずながら、私も力をお貸しします」
 それを見た光龍が希望と共に問いかけを投げかけると、その直後には残っていた霧は一斉に晴れていった。
 そして今までは大まかな影がぼんやりと見えているだけだったが、ようやく何者かがそこに姿を現す。
「そうか……。すまんな、水龍……」
 対する光龍は安堵したように呟き、木龍と共に目の前の存在へ視線を向けていく。
 すでに霧が完全に消え失せた先には、光龍や木龍とは違う存在が佇んでいる。 ただしそれは間違いなく龍であり、頭部に生えている二本の角が印象的だった。
 その青い体は他の龍と同じように実体がなく、そこにあるのは生前の姿を小さくしたもののように見える。
 光龍や木龍と比較すると現在の大きさは一回り程小さかったが、穏やかな雰囲気を持って不思議と存在感があった。
「それでは早速だが、何か闇龍に関して情報はないか? 人の多いこの地なら情報も集まりやすいだろう」
 そして段々と視界が明瞭になりつつある中、光龍は改めて水龍の方へと目を向けていく。
「私にわざわざ聞くという事は本当に情報がないのですね。あなたでも感知は難しいのですか?」
「うむ。今の同化の状態では私の能力にも限界があるし……。それにここまで周到に身を隠しているのを鑑みると、どうやら特別な場所に潜んでいるのかもしれん」
 対する水龍は不思議そうに顔をしかめ、光龍はそれに応じながらさらに難しそうに考え込んでいった。
「成程、そうですか。ですが残念ながら、こちらにも特にこれといった情報はありません」
「そういえば最後に見た時、闇龍は素体と同化していた。その素体の人相を伝えれば、探す事は出来るか?」
「うーん、それはどうでしょう。素体ならば外見的には人とほとんど同じですから、町中や人の群れなどに紛れるのも容易いでしょう」
 それから水龍は光龍と言葉を交わしつつ、不意に顔を横へと向けていく。
 見据える先には小さな窓がついており、そこから見える外ではまだ雨が降り続いているようだった。
 延々と空から落ちてくる大粒の水滴は、雨どいを伝って地面へと落下していく。 そしてそこで地面に染み込むと、あっという間にその姿を分からなくしていった。
「やはり派手に動きでもしない限り、こちらから探しようはないという事か……」
 光龍も同じものを目にしつつ、よく理解したと言わんばかりに憂鬱そうな表情を浮かべている。
「えぇ。やはりまず目立つものから手をつけていくのが一番の近道だと思いますよ。確かに闇龍の情報ならありませんが、これまでにない異変に関するものならあります」
 次に水龍はそう言ったかと思うと、急に気分を切り替えて明るい声で話し出していった。
 それを聞いた光龍は驚いたように視線をそちらへ戻し、側にいる木龍も興味深そうに目を向けていった。
「……実は最近、各地の自然環境がおかしくなっているようなのです。それは今までにはなかった天候の不順、あるいは災害の頻発など様々です」
 水龍は注目を浴びながらも一呼吸置くと、ゆっくりと口を開いていく。
「それも感覚的にしか分からないような些末な事ではなく、これまでには観測されなかったような事ばかりなのです」
 話しながら目は大きく見開かれ、まるで全ての出来事をその目でつぶさに見てきたかのようだった。
「そこまでひどいと言うのか?」
「えぇ。この地方でも実際に水害が増えるようになり、山を超えた先の里では暴風が止まないようです。あなた方はこれまでの旅の中で、何か気付きませんでしたか?」
「そうだな……。私のいた所にはまだ目立った事は起きていなかったはず……。だがそれもセンカと旅立つ前の事だから、今は分からんな」
 すると光龍は水龍のただならぬ物言いに怪訝そうな反応をし、それからかつて自分が過ごしていた場所の事を思い出していく。
「確か我のいた所でもそのような事態は進行しつつあった。火の国でもしっかりと確認した訳ではないが、環境の悪化が所々に見られたしな……」
 そうしているとただ話を聞いているだけだった木龍も、ふと思い出すように口を開いていった。
「そういえばそうだったな……。恐らく程度の差はあれ、どこも状況は同じなのかもしれんな」
「何だかやるせないですね。やはりこれは私達が肉体を失い、自らの義務を果たせなくなったのが原因なのでしょうか……」
「あぁ。せめて私達のいずれかが肉体を維持していれば、こうはならなかったはずだ。今は一刻も早く肉体を手に入れ、自然の管理を再開せねばな……」
 それを聞いた光龍や水龍は、そのどちらもが頷きながら表情をさらに険しくしていく。
「いや……。後者については異論はないが、前者についてはどうだろうな……」
 だが木龍は今度は両者の言葉に疑問を呈すと、じっと考え込むように顔を俯かせる。
「何? それはどういう意味だ?」
 それを聞いた光龍はもちろん、水龍も木龍の方を向くと次の言葉を静かに待っていった。
「例え無事な龍が残っていたとしても、まともに調整をしたかと言われれば疑問だ。むしろ人に災いあれとでも言わんばかりに、何もかもを放棄する可能性の方が高い」
 やがて木龍は難しい顔をしたまま、あくまで顔はあげぬまま語り出していく。
「もちろんお前や水龍なら違うだろうが、他の龍ではどうだ? 現に我などはかつて人に呆れ、ただ怠惰に時を過ごしていただけだった」
 その様は実に淡々としていてあまり感情は窺えないが、それでもかつてあった事実を振り返る様はあまり面白そうではない。
「まさか、あなたが……? ではもうあなたは、何にも関与するつもりはないと仰るのですか?」
 対する水龍は驚いたような反応を見せた後、そのまま木龍の事をじっと眺めていく。 その様は相手から滲み出ているあまり良からぬ感情を察し、密かに懸念を抱いているかのようだった。
「いや……。あの時の行動に明確な意図があった訳ではないし、あくまでサクと出会う前までの事だ。今は我もあそこまで無気力な状態ではない」
 しかし何かを思い浮かべるように目を細める木龍の方は、むしろ穏やかさや安らかさといったものすら漂わせている。
「そうですか。それは良かったです……。どうやらあなたはあれから、良き出会いに恵まれたようですね……」
 するとそれを見た水龍も安堵したように微笑み、その顔つきや声色を明るくしていく。 一時は感じていた懸念も今や薄れたのか、ただ相手から感じられるようになった柔らかい雰囲気に嬉しそうに浸っている。
「まぁ、どちらかと言えば良いと言えるのだろうな。あれについては、少し騒がし過ぎるのが問題ではあるが……」
 一方で木龍は少し話し過ぎたとでも言わんばかりに、顔を逸らすと露骨に目を閉じていった。
「ふふっ。でしたらなおさら、これ以上の自然環境の悪化は防がねばなりませんね。このままでは彼等の生きる場所はどこにもなくなってしまいます」
「そうだな。何か対策を考えねばならんか。とは言っても、体がなければ大した事は出来んが……」
 それから水龍や光龍は思い出したようにその表情を暗くし、どちらも考えを巡らせながら黙り込んでいく。
 木龍も元からあまり口を利かない方であり、その場では一気に音が絶えて静まり返っていった。
「そういえばすっかり話し込んでしまいましたが……。いきなりあのような事をして申し訳ありませんでした。やはり驚かれましたよね」
 ただしそれから少し経った時、不意に顔を上げた水龍はやや慎重に口を開いていく。
 どうやら話題にしているのは屋敷から姿を消したロウ達の事のようであり、その口ぶりからは水龍が関係しているのは間違いないらしい。
「いや、気にするな。お前の力だとすぐに分かったし、どうせあいつ等にはいい薬だ。例え手こずる事になろうと、これで少しは気を引き締めればいいのだが……」
 だが光龍は特に反応する事もなく、すぐ側にいる木龍も同じようにすんなりと流している。
 そんな両者の様から察するに、どうやらロウ達には差し迫った危険などはないらしい。
 そのためにそれからもロウ達の無事などが論じられる事はなく、室内はひたすら落ち着いた静寂さで満たされている。
 ただし龍達の間には引き続きどこか緊迫した空気が流れ、それからも長い議論と危惧が続けられる事となっていた。


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