第9話 水


「えっと、それで何故いきなり謝ったかと言いますと〜。もうお気付きかと思いますが、先程の霧は私の仕業だったんですね〜」
 それでもユウエは直後に頭を上げると、何事もなかったかのように口を開いていく。
「本来ならお客様にあのような事はしないのですが、こちらにも事情がありまして〜。えっとぉ、それで霧の迷い路はいかがでした〜?」
 その両目は現れた当初からずっと開いていないが、顔は頻繁にロウ達の方へと向けられている。 そして気楽に話しかけてくる様からは、町の長らしい威厳や迫力といったものはあまり感じられなかった。
「手前勝手にあんな事をしておいて、随分と軽く聞くものだな……」
「まぁ、大変だったよ。いろいろとね……」
 対するトウセイやロウもそんなユウエを見ていると、自然と気が抜けてしまったらしい。 二人はそれぞれ溜息をついたり、あるいは頭を軽く掻きながら答えていく。
「へぇ、そうなのですか……。私の時は、とても楽しかったのですけれど……」
 するとユウエはにわかに口元に手を当て、本当に不思議そうに顔を傾げていった。
「え、ご自分でも試されたんですか?」
「はい、そうなんです〜。それも一度と言わず、今まで何度となくやりましたよ〜」
 それを聞いたセンカは驚いたように呟くが、ユウエは何故か嬉しそうに手を合わせていく。 その笑顔は子供のように朗らかで、何かとびきり楽しい事をしてきたかのようだった。
「えっと……。それはどうしてですか? し、修行とか何か理由があったのでしょうか?」
「いえ、ただ単にとても面白そうだったものですから〜。つい我慢が出来なかったんです〜。それで水龍に頼んで、特別に体験させてもらいました〜。ふふっ〜」
「そ、そうなんですか……。もしかしてあの霧も、本当はもっと楽しいものだったのかな……?」
 センカはなおも怪訝そうに尋ねるが、応じるユウエはなおもにこにことしたままである。
「はぁ……。一時はどうなるものかと肝を冷やしたというのに、終わってみればこんな結末とはな……。全く、はた迷惑な話だ」
 やがてトウセイは不毛な会話を聞いている内に、話をする気力も失せてきたらしい。 溜息をつきながら目を瞑ると、腕を前に組んで閉口してしまう。
 あれだけ苦労して突破した霧も実際は脅威でも何でもなく、むしろどちらかと言えば遊びに近いものだった。
 その事に気付くともう口を動かすのも馬鹿らしくなったのか、ロウやセンカも顔を引きつらせながら苦笑するしかない。
「ふふ、いいじゃないですか〜。理由がたったそれだけでも〜。こんな体験、龍でも宿していない限り滅多に出来ないのですから〜」
 一方でユウエは相変わらず微笑みを絶やさず、なおも一人で喋っている。
 そのすぐ後ろには今も女の子が控え、無言のままで微動だにしていない。
 そんな二人は見事なまでに対照的な姿を見せ、今までにあまり見た事のないような珍しさがあった。
「ははっ……。何だかこの人、面白いね。ちょっと、笑えてくるよ……」
 するとサクもそれを見ている内に、ふとわずかな微笑みを浮かべるようになっている。
 少し前まではひどく落ち込んでいたのだが、今は表情も明るさを取り戻しつつあるようだった。
「あぁ、確かに。そうだな……」
「はい。そ、そうですね……」
 だがロウとセンカはまだいつも違うサクの姿に困惑し、声をかけるのも躊躇っている。
 どうしてサクがここまで塞ぎ込んだのかは分からないままであり、そのせいで大して会話をする事も出来ないでいた。
「ですが、おかげで皆さんの事がよく分かりましたよ。どなたも本当に心の綺麗な、お優しい方ばかりですね〜。うふふっ〜」
 一方でユウエはこちらの事情など鑑みず、今も微笑みながら喋っている。
 空気をあまり読まぬ独特な雰囲気はやがて周囲に広がり、それは次第にロウ達にも伝わっていく。
 だからこそやや気まずくなりかけた空気も、それからすぐに元に戻っていった。
「……あの、さっきのおかしな出来事は龍の力によるものなんですよね。でしたら、ユウエさんは龍と同化されているのですか?」
 それからセンカはふと顔に手を当てると、思い付いた疑問を素直に口にしていく。
「えぇ、それは気になりますよね〜。私も是非、皆さんにご紹介したいと思っていたんです〜」
 するとユウエは大きく頷いた後、片手を自らの隣の方に持ち上げていった。
「水龍です〜」
 続けてそう言ったかと思うと、その直後には手で指し示した先にいきなり龍が姿を現す。
 そこに現れた龍は、流れる水を纏ったような美しい青色の体をしている。 ずっと見ていると心が現れるかのようで、ユウエとどこか似た不思議な雰囲気を纏っていた。
「皆さん、初めまして。私が水龍です」
 そして水龍はそう言ったかと思うと、目を閉じながらごく普通に頭を下げてくる。
「あ、どうも……。うーん。何だか少し調子が狂うけど、これが水龍なのか……。何がとは言えないけど、やっぱり他の龍とはどこか違う気がするな」
「はい。見た目ではなく、纏う雰囲気というか……。龍神様にもそれぞれ、個性のようなものがあるのでしょうか……」
 ロウやセンカも今までに見た龍は見せてこなかった、礼儀正しいと言える行動を見るとつい反射的に頭を下げ返していく。
 次にそれから体勢を元に戻すと、息を呑みつつ改めて水龍の方をじっと眺めていった。
 水龍は木龍のように細長い体躯を持ち、その全身は青色に染まっている。 さらに体は隣にいるユウエの方にまで、巻きつくように伸びていた。
 謙虚そうな印象は今も変わらず、どれだけの視線を受けても目はロウ達の事をただ穏やかに見つめ返している。
「もう水龍ったら、本当に生真面目なんですから〜。初対面の方にはもう少しにこやかに対応しないといけませんよ〜」
「あぁ、人と相対する時はそうするのでしたね。あまりあなた以外とは触れ合わないもので、あまり気にしていませんでした。これからは努力するようにしますね」
 それからユウエが場違いな程に明るい声で話しかけると、水龍もつられるように穏やかに答えを返していった。
「……」
 一方でロウ達はというと、親密そうなやり取りを見ながらどこか呆気に取られている。
 だが当人達からすれば、ただでさえ不思議な事の連続の後であったために仕方ないのかもしれない。
 それからもロウ達は黙ったまま、目の前の人と龍だけが平気で談笑を続けていく。
「あぁ……。どうも、これは失礼致しました」
「あははっ〜。お客様が置いてけぼりになっちゃいましたね〜。どうも私ったら、一つの事に集中すると他の事が見えなくなって〜」
「あら、あなたの目が見えないのは元からでしょう?」
「あ、そうでした。水龍の言う通りです。あははっ〜」
 しかしやがて水龍やユウエも、どことなく場の空気が変わったのを感じ取ったらしい。
 両者ともすぐにこちらに頭を下げてくるが、まだその顔には笑みを浮かべて楽しそうにしていた。
「えぇっと……。じゃあ今まで俺達は水龍の力でどこかに移動させられていたって事ですか?」
 ロウはその雰囲気にまだ戸惑いつつも、顔を掻きながらふと思いついた疑問を口にする。
「いえ、それは少し違いますね〜。そもそも皆さんはどこにも行ってはいないのです。ずっとこの屋敷の中で幻を見ていたのですよ〜」
 それを聞いたユウエはそう言うと、ずっと変わらぬ笑みを浮かべた顔を動かしていく。 その速度は間延びした話し方と同じようにゆったりとしており、やがて部屋全体を見渡すように動いていった。
 辺りにはユウエが訪れた時の飾りつけ以外は、何の変哲もない板の間が広がっているだけである。
「何……? では、兄さん……。いや、あの偽物も元から存在しない者だったというのか」
 一方であの霧を経験したトウセイなどは、そう言われてもとても信じる事は出来ないようだった。
「えぇ。あれは全て、あなた方の心の奥底にあるものです。会いたいと思う人、支えとなる存在。あるいは未だに残る忌まわしい記憶などが、形となって現れたのです」
 それから水龍が補足するように続けるが、聞く側であるロウ達はなおも怪訝そうにしたままである。
 龍の言う事なのだから間違いではないと思うが、それでも今一つ確証が持てないのか互いに顔を見合わせてしまう。
「でも、言葉だけでは分かりにくいですよね〜。実際に御覧になってもらった方が早いでしょう〜。それでは、よいしょぉ〜」
 するとユウエはたおやかな微笑みのまま、何故か座っている状態から片足を投げ出していった。
 さらに迷いもなく裾を捲っていくと、そこには染み一つない真っ白な長い足が姿を現す。
 艶めかしいそれはロウ達のような若い男はもちろん、同性であるセンカですら目を奪われてしまう。
 ただしそこから間髪入れずに足には紋様が浮かび、そこからは青い光が放たれていった。
「!?」
 その鮮やかな輝きにロウ達が反応する暇もなく、次の瞬間には周囲で明らかな異変が起こっていく。
 一体どこから入り込んだのか想像のしようもないが、とにかく部屋の中は溢れる程の大量の水で満たされていた。
「ぐわっ……!?」
「きゃぁ……!」
 それはいきなり水深のある池の中に突き落とされたかのようで、ロウ達は慌てふためく事しか出来ない。
 口から勝手に漏れる息は泡となり、冷たい水は見る見るうちに体温を奪っていく。
 そんないきなりの窮地に対しては誰もが為す術なく、水の中に浮かびながらもがき苦しむしかなかった。
「ふふ〜」
 だが同じ環境の中にいるというのに、ユウエはまるで苦しむ様子はない。
 むしろ落ち着き払って楽しそうにしたまま、次にゆっくりと紋様の浮かぶ足を撫でていく。
 すると紋様からは青い光が失われ、それと同調するように水も掻き消えるようにその存在を失っていった。
「ごほっ、ごほっ……。う、うぅっ……」
「ぶはぁっ、はぁ……。ど、どうなっているんだ」
「けほっ……。な、何? あれは何だっていうのさ……?」
 水から解放されたロウ達はその場に倒れ込み、咳き込みながらも空気を欲し続けている。
「まさか、さっきのが幻だと……!? あんな、実感のあるものが幻のはずが……」
 トウセイも珍しく派手に驚いた様子で、そう言うと急いで自分の体へと目を向けていく。
 しかしつい先程まで水の中でもがいていたはずなのに、どこを見ようと濡れている場所は見つけられなかった。
 さらにそれは室内も同じであり、水滴の一つすら落ちていない乾いた状態となっている。
「ふぅ……。疑っていた訳ではないですが、凄いですね。あれはもう、幻なんてものじゃないです。まるで本当に水の中にいるかのようでした」
「あぁ。これが水龍の力って訳か……」
 センカやロウもようやく落ち着きを取り戻すと、目を見張りながら感心するように呟いていく。
 その手は今も動悸が収まらないかのように胸の辺りを押さえ、呆然とした思考は未だに幻の中にいるようである。
 すでにこの場にはユウエの言葉を信じない者はいなくなり、今はただ水龍の力に感嘆するばかりとなっていた。


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