こもりさん 1



「ふんふん、ふーん。ふふんのふーん。あら?」
 とある平穏な昼下がりに、鼻歌交じりにリビングで掃除機をかけている女の姿がある。 だがその直後、すぐ近くで誰かが駆けていく音がしたのに気付いた様子だった。
「ねぇ、もしかしてどこかに行くの?」
 掃除機のスイッチを切ってから廊下に顔を出すと、少年が玄関で靴を履いているのが見える。
「うん、ちょっと遊びに行ってくるね。お母さん」
 対する少年はわずかに振り返ると、かかとを靴にしまい込みながら答えていった。
「だったら車に気を付けてね。すぐ近くで交通事故があったらしいから。道路を渡る前はちゃんと左右を見るのよ。あと、それから……」
「うん、分かってるよ。絶対に行っちゃいけない場所でしょ? 出かける度に言うんだから、もう……」
 母はその姿を心配そうに見つめているが、少年の方はどこかうんざりした顔をしている。
「分かっているのならいいけど……。隣町にある古い墓地だからね。そこだけは何があっても行っては駄目よ」
「大丈夫だって。そんな所、頼まれても行かないってば。でも……。どうして行っちゃいけないの? そこに何かあるの?」
「うーん……。それはね……」
 それから玄関まで進み出てきた母だったが、言う事がいまいち要領を得ない。 少年も不思議そうな顔をすると、ドアに手をかけたまま振り返っていった。
「何か特別な理由でもあるのかな? この前にお父さんが話してくれた時は僕だけじゃなくて、家族皆が行っちゃいけないって言ってたけど」
「もう、あの人ったら……。そんな事まで話さなくてもいいのに……」
「ねぇ、どうして? 隠さないで教えてよ」
「はぁ……。子供はそんな事、気にしなくていいの。いいから外で遊んでらっしゃい。本当に車には気を付けてね」
 さらに怪訝そうに顔を傾げる少年だったが、母の態度はあくまで変わらない。 頭に手をやって深い溜息をつくと、そのままリビングの方へと戻っていってしまった。
「はーい……。行ってきまーす」
 対する少年もどうしても答えを得たい訳ではなく、それからすぐにでも遊びに行く事を思い出したらしい。
 そのまま手に力を込めるとドアを勢いよく開け放ち、暖かな日光の照る外へ向けて小走りに駆け出していった。

 それからある程度の年月が過ぎた頃、幼かった少年はすでに大学生になっていた。
 立派に成長した青年はかつて何度もしつこく言われていた、行ってはいけない場所の事などすでに忘れている。 同じ大学に通う仲の良い友人に囲まれ、勉学に励みながら未来に向けて少しずつ歩みを進めていた。
 そして酒が飲める年齢にもなると、友人から盛んに飲みに誘われるようになる。 青年も何度もそれに応じ、その日も夜遅くまで居酒屋で楽しんでいた。
 やがて酒を飲む内に気が大きくなってきたのか、友人達の間では帰る前に肝試しでもしていこうという流れになる。 そして行くのは近所にある墓地とあっさりと決まり、青年が口を挟む暇もない。
 そこはこの地域では有名な心霊スポットで、夜な夜な白い服を着た女の幽霊が目撃されているらしかった。
 青年はその話を聞いている内に何かを思い出しそうになったが、酒のせいで頭がうまく働かない。
 一方でさらに盛り上がりを見せる友人達は支払いを済ませ、居酒屋を後にしようとしている。
 それから少し遅れて青年も居酒屋の入り口にある引き戸に手をかけて開けると、漆黒で満ちた夜の世界へ向けてゆっくりと歩き出していった。

「それでさ……。これは聞いた話なんだけど、ある家で子供が生まれたらしい」
 墓地へと向かう道すがらは、街灯や月の明かりもなく薄暗い。 そんな中で友人の一人は、やや神妙な面持ちで語り出していく。
 少し前まではしゃいでいた他の友人達も、段々とその雰囲気に呑まれるように話に聞き入っていった。

 その家庭は比較的裕福であったが、両親はもちろん親族なども皆が仕事で忙しかった。
 だから仕事の間だけでも子供を預かってくれる乳母がいないか探した所、人手を伝って年若い少女を紹介される。
 初めは子供の両親も経験の浅さを心配していたが、そこまで難しい事を要求している訳ではないので最後には承諾した。
 そして翌日から子供を預ける事にして、初めの内は全てが順調に進んでいた。
 しかし何日か経った頃、少女の不注意によって大変な事が起こる。
 少女は慣れない仕事に疲れたからか眠気に襲われ、目覚めた頃には子供の様子がおかしくなっていた。 何かを口にしてそれを喉に詰まらせたのか顔色は明らかにおかしく、すでに呼吸も止まっている。
 もしもそこで誰か人を呼べれば良かったのだが、少女は恐怖に負けてその場から逃げ出してしまう。
 そして後に死亡した子供が発見された頃、少女の行方はすでに誰にも知れないものとなっていた。
 後に事の次第を知った父は少女に対する怒りよりも、待望していた初めての子供を失った悲しみに暮れる。 だがすぐに自分の感情を押し殺すと、仕事に打ち込んで何とか心を保とうとした。
 一方で母は悲しみに暮れるあまり、日が経つにつれて心が壊れていった。 ぼろぼろの人形を子供に見立ててあやしたり、夜に徘徊するなどの奇行が目立つようになる。
 口にする言葉が支離滅裂になってきた所で専門の病院に入院させるが、それも意味はなかった。 心の病は改善する兆しすらなく、むしろひどくなっているように見えた。
 母は未だに子供が生きていると思い込み、子供と引き離されたと勘違いして暴れる日々が続く。
 薬で大人しくさせたとしても今度はひどく鬱屈とした状態となり、食事もせずに痩せ細ってしまう。
 それでも母は子供の事を忘れる事は片時もなく、常にぶつぶつと子供の名を呟いていた。
 さらに母が病院を勝手に抜け出すのも一度や二度ではなく、その度にもういない子供を探しているようだった。
 あまりに何度も問題が続く事から、病院もさすがに預かり切れないと弱音を吐き出す。
 しかしそんな頃、ある転機が訪れた。 とある夜にいつものように病院を抜け出していた母は体調が急変したのか、野外で死亡しているのが発見されたのだ。
 父や他の親族はいきなりの事に戸惑いや悲しみを覚えつつも、内心ではどこかほっとしているようだった。
 実際に口にはしないがようやく辛い日々が終わり、もうこれからは前に進む事ができるのだと誰もが密かに安堵していく。
 それでも母だけはまだ深い情念を抱えたまま、肉体を失ってもなお現世を彷徨っていた。 自我が消失して箍の外れた危うい状態のまま、自分の子供を殺した子守りを探し続けているのだ。
 どこにいるのかも分からない相手を探すなど無謀だが、恨みに突き動かされる母に一切の迷いはない。

「例えどれだけの時が経とうと決して諦めず、母親は今日も自分の子を見殺しにした少女を探し続けているらしいぜ……」
 そう言って怪談を語り終えると、友人は満足気に目を閉じていく。 辺りに満ちた宵闇や生暖かい風に加え、湿度の高い粘ついた空気など雰囲気は充分だった。
「……」
 だからこそ周りにいる誰もが息を飲み、何とも言えない静寂が満ちていく。
「で、でもさ……。それって結構、昔の話なんだろ? 当時の人間が生きているかどうかは微妙だろうし、その幽霊もいい加減に成仏したんじゃないか?」
「それがその幽霊は自分が何をしているのかも分からないくらい、錯乱している状態なんだそうだ」
 だが直後には気まずい空気を打ち破るように友人の一人が口を開き、怪談の語り主も応じるように答えていった。
「だからもう何をどうすれば終わりになるのかすらも分からず、むやみやたらに誰にでも呪いをかけてるんだってさ。される方からすれば、たまったもんじゃないがな」
 顎に手を当てて考え込む様はどこか深刻で、最後にはやれやれと言った様子で深い溜息をついていく。
「は、はは……。作り話の出来としてはまぁまぁかな。ま、俺は別に怖くはないが……」
 対する友人はポケットから煙草を取り出そうとするが、その手はがくがくと震えている。
「いやいや、本当だって。ちゃんと地元の先輩から聞いたんだ。その人はその手の話に詳しくて、ちゃんとした情報源なんだって!」
「どーだか。人から聞いた話なんていくらでも嘘を混ぜられるだろ。せめて本人が体験したってならともかくさぁ……」
 それからも語り主と別の友人の話は続き、一行はそれからも歩きながら談義を続けていく。
「……」
 しかしそんな中で青年だけはそれに加わらず、一人だけ集団の中でぼうっとしている。
 それは何かを深く考え込んでいる様子でもあったが、虚ろな目を見ると他に何か理由があるかのようにも見えた。
 足を動かす速度も自然と低下し、やがて一行から遅れて一人だけとぼとぼと歩くようになってしまう。
 それでもすぐに正気を取り戻すと、頭の中のもやもやを吹き飛ばすように強く頭を振ると友人達を追うために急いで歩き出していった。

 やがて夜も更けて深夜と呼べるような時間帯になった頃、一向は暗闇に包まれた墓地に到着する。
 辺りは一見するとどこにでもあるような普通の墓地で、管理も行き届いているように見える。 怪談に出てくるようなおどろおどろしさなどは決してなく、ただ静謐な空気で満ちていた。
 さらにこちらは人数もある程度いるために、いくら深夜の墓地といえどもそこまで怖くはない。
「何だ、結局何もなかったな。拍子抜けだよ」
「そうだな。でも、まぁこんなもんだろ。むしろこんな近場にヤバい心霊スポットがあっても困るっての」
「あーあ。私、幽霊まだ見た見た事ないから楽しみにしてたのになぁ」
 だからこそ雑談を続けながら、あっさりと墓地の奥まで辿り着いていった。 ただしそこにいる誰もはどことなく安堵した表情をしており、何もなくて良かったという風だった。
「……」
 一方で青年は集団から離れ、一人きりで少し離れた方をじっと眺めている。 何かが気になるのかその表情は真面目なものであり、一点を見つめたまま固まっていた。
 加えていつの間にか友人達の話し声も聞こえなくなり、あれ程感じていた蒸し暑さも消えている。 視線の先には墓地に隣接した林が広がり、その先にはここよりも鬱蒼とした空間が広がっていた。
「……さん」
 そんな時、ふと誰かの声が聞こえていく。 それは周りにいる友人の誰とも違う、聞き慣れないものだった。
「……!?」
 青年はそれを聞くと、驚きと共に耳を澄ませる。
「……さん、いませんか?」
 すると何者かの声が、また林の方から聞こえてくる。 しかもさっきと同じ方向から、前よりもはっきりと聞き取れた。


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