奇跡 4



「そいつは同じ故郷から共に出てきた、昔からの幼馴染だった。お互い金も学もないが、体だけで一旗挙げようと共に頑張ってきた」
 次いで男はたくさんの物や死体が散乱した場所に辿り着くと、がむしゃらになって周囲の物をどかそうとする。
 折しも空から大量の雨粒が落ちてきたが、まるで気にする様子はない。
 辺りは血や臓物、ぐしゃぐしゃになった泥水などに塗れているが男の行動には変化も躊躇もなかった。
 死体の一部だろうと容赦なく持ち上げ、かなり乱暴にも扱っていく。 死者への尊厳などに気を回すより、まだ命を繋いでいる生者を優先させようとしているかのようだった。
「兄弟のいない俺にとってあいつは兄のようでも、弟のようでもある大事な存在だった。かけがえのない友であり、どんな状況だろうとあんな所に見捨ててはおけなかった」
 そう語る男は今でも当時の事を苦しく思っているのか、表情は一向に良くならない。
「いつもならはぐれてもすぐに見つかるはずなのに、あの時は何故か痕跡すら見つけられなくて……。そんな時、離れた場所から誰かの声が聞こえてきた」
 一方で過去で男が振り向いていくと、まだ戦場を離れていなかった部隊の生き残りらしき人物の姿があった。
 それは良質な装備に身を固めた兵士であり、直後にはこちらへと駆け寄ってくる。
「話を聞けばどうやら、撤退する前にまだ生きている仲間を回収していたらしい。それで俺を見かけて、声をかけてきたようだった」
 だが当時の男からすれば、それに構っている時間すら惜しかったらしい。
 兵士からの呼びかけを意図的に無視すると、そのまま仲間の探索へと戻っていく。
 それでも兵士はすぐ近くまでやってくると、男に対して何かを話し続けていた。
「正規兵が傭兵をいちいち助けるなんて普通なら有り得ないが、あそこはかなりの混成部隊だったからな。身内と見分けがつかなかったのかもしれない」
 男の呟きにはある種の実感が込められ、兵士と傭兵の間にある複雑な事情も窺わせる。
 国に取り立てられた兵士と、使い捨て同然に扱われる傭兵。 それらの違いとあらゆる面で感じる格差は、しばしば両者の間に軋轢を生んでいた。
「……?」
 ただしまだ幼い少女からすればそのような知識も、何かを察する機微も持ち合わせているはずがない。 疑問を感じるままに不思議そうな、あるいは怪訝そうな顔を傾げていた。
「……まぁ要するに、そいつは俺を助けようとしていた訳だ。そして俺は恐らく、最後の助けであろうそいつに……。生き残る道に縋ってしまった」
 男はそれを横目にしつつ、再び過去に思いを馳せていく。
 その言葉が示す通り、兵士の説得を聞き続ける男の動きは徐々に鈍っていった。
 すでに敗色は濃厚で、ここに留まっていても死は免れない。 生きているか死んでいるか分からない者のために、助かる道から目を背けてしまうのか。
 耳を澄ませば風や雨の音に混じって敵の怒号が聞こえ、地面も大量の人の移動によって微かに震えているのが分かる。
 多くの戦場を潜り抜けてきたからこそ、それに気付いた男の手はやがて完全に止まってしまう。
 そして兵士が改めて男の肩に手をかけると、男は初めてそちらへと振り向いていった。
 雨でぐしょぐしょに濡れた表情は泣いているようにも、あるいは笑っているようにも見える。 それは様々な感情が爆発しそうなのを抑え、今も何とか懸命に現実に立ち向かおうとしている者の顔だった。
「俺は死を目前にして、臆してしまったんだ。二人死ぬより、一人でも助かった方が良い。あいつならきっとそう言う。想像で勝手に決めつけ、逃げ出していった……」
 それから男の体からはすっと緊張が解け、ただ荒い呼吸とやけに響く心音ばかりが耳に残る。
「その後、どう道を辿っていったかも定かではない。頭の中では自分をごまかす理由をひたすら考え、気付いたら撤退する馬車の中で座っていた」
 やがて男が再び意識を辺りに向けられるようになった頃、すでに幾らかの時間が経過していたようだった。
 虚ろな目を開いて周囲へ目を巡らしていくと、そこは古くぼろぼろになった馬車の荷台だと分かる。
 そこは生き残った兵士が所狭しと連れ込まれ、誰も一様に怪我を負ってそこかしこに包帯を巻きつけていた。 密閉されている訳でもないのに空気はひどく淀み、高い湿気のせいで不快感ばかりが募る。
 多くの仲間を失ったせいで誰もが心底落ち込み、一人も口を開こうとはしない。 その場はほとんど静寂に包まれていたが、どこか不気味なものに他ならなかった。
 一方で馬車は今も戦場を離れつつあり、ここにいるという事は確実に助かったという事でもある。
 そこにいる男も安堵すると急に眠くなって、瞼も自然と下がって持ち上がらなくなっていく。
 そしてひどい悪路を走る中で手痛い振動を感じつつも、男の意識は深く暗い所へと沈み込んでいった。

 やがて安全な陣地まで撤退した男は、一息つくと共に身に纏っていた装備を外していく。
 体に残る傷にもとっくに手当てが済み、包帯が各所に巻かれて若干の痛々しさは残っている。
 それでも持っていた荷物も全て下ろして身軽になると、ようやく自分が生き延びたという実感も湧いてきたかのようだった。
 男はまだわずかに残る痺れや疲れに飽き飽きしたように溜息をついていると、ふと誰かの声が耳に入ってくる。
 そちらを見れば、そこにいたのは戦場で自分を助けにきてくれた名も知らぬ兵士だった。 その手には紙の束が持たれ、今も自分の方に向かってきている。
 どうやらその兵士は死亡した仲間や傭兵について調べているらしく、側までやって来ると紙束に目を通しながら話しかけてきた。
 対する男は初めの内はそれをほぼ聞き流していたが、やがて重大な情報を耳にするとひどく驚いた様子で目を見開く。
「……!?」
 心臓が飛び出すかと思う程の衝撃は体中を走り、怪我も気にせずに相手の方へと詰め寄る。
 それから詳細な情報を聞き出そうとするも、突き付けられたのは小さな希望すら打ち砕く絶望でしかなかった。

 男があれ程必死になって探していた仲間は、あの時すでにこの世にはいなかった。
 その遺体が見つかった場所は男と兵士が出会い、探索を諦めたすぐ側だったらしい。
 いくつもの死体が折り重なる下にいた仲間は腹部に傷を負い、失血死していた所を発見されたと言われる。
「あの時、もう少し探してさえいれば助けられたかもしれない。俺にあと、ほんの少しの勇気でもあれば……。きっとあいつの痕跡に気付けただろうに……」
 過去だろうと今の男だろうと、その顔から後悔の念が消える事は決してない。
「でも、できなかった。いや、しなかったんだ。俺は自分が死ぬのを恐れ、そのせいで……。きっとあいつを、無意識の内に見捨ててしまったんだ」
 癒えぬ心の傷はいつだろうと男に苦しみをもたらし、思わず顔に手を当てると悔しさを滲ませていく。 歪んだ表情や力の込められた声などは、それまでの男からは想像もつかない。
 思えばこれまで男はあまり感情を表に出さず、落ち着き払った態度を見せていた。
 それでもその内面は昔の出来事に余程囚われているのか、曝け出す感情はいつもの比ではない。
 姿形や細部こそ違えど、その様は少し前に少女が見せた慟哭とどこか似ている部分もあるかのようだった。
「それは、気にし過ぎですよ。どれだけ頑張ったって、後から後悔する事なんていくらでもあります。だから、そんなに落ち込まなくても……」
 少女はそんな相手の様子をよく見えずとも感じ取ったのか、寄り添うようにしながら声をかけていく。
「いや、俺には自覚があった。だからこそ、体の傷は治っても心はずっと救われないままだった。実は、今でもあの時の事を夢に見る。あの地獄を、寝る度に何度も何度も……」
 しかし男は首を横に何度も振るばかりで、その度に滴る雨粒を辺りに撒き散らしていった。
「もしも本当に奇跡があるなら、俺は何を代償にしても求めていただろう。ただ運がいいのか、悪いのか……。生憎とそんなものには出会えず終いだった」
 それは尽きぬ男の苦悩を示しているかのようで、今も絶えず頭上から降り積もっている。
「俺がこうしているのは、あくまで自分のためだ。あの日に救えなかった、仲間と自分の心。もう今さら取り戻せるものではないのかもしれんが……」
 やがて男は疲れたような表情を見せると、目を伏せたまま歩き出す。
 自然と少女もそれについていくように歩き出し、しばらくぶりに二人は森の中を進んでいくようになっていった。
「お前を助ける事で、少しは楽になれるかもしれない。そう、俺は些細な奇跡でいいから求めているだけだ。独りよがりな。贖罪だとでも思えばいい」
 だが男は今も塞ぎ込んだまま、少しずつ声の調子も暗く沈んでいく。
「だから、お前が気にする事などまるでない……。本当に、ないんだ……」
 最後に呟いた言葉などは消え入るようで、雨音に紛れてはっきりとは聞こえなかった。
「……」
 少女はそんな相手にかける言葉もなく、ただ心配そうな表情を浮かべるしかない。 それでも今はせめて相手を一人にしないよう、側をつかず離れずの距離を保てるように心を砕いていた。

「ここはいつだろうと、少しも変わらんな。いや、むしろ以前よりも……」
 それからしばらく進んだ後、男は何を思ったのか急にその場に立ち止まる。
 見れば前方では木の枝が幾重にも複雑に絡み合い、その先へ続く道を完全に塞いでいた。
「全く……。いつ見ても、無駄に生い茂りやがって……。こんな風だから、拒みの森なんて呼ばれて誰も寄り付かないんだ」
 男はそれを見ると腰の辺りに手を伸ばし、そこに下げられていた小さめの剣を抜き放つ。
 そしてそれをおもむろに前方へ振り抜くと、枝を次々と切り裂いていった。
 枝はそれぞれがなかなかの太さや硬さを持ち合わせているようだが、男の手際の良い作業の前にあっさりと取り払われていく。
 その間にも男は少しずつ体に活力を漲らせるようになり、少し前までの落胆した様子は感じさせなくなっている。
「はぁ、ふぅ……。ふぅ……」
 一方で少女は枝が絶え間なく辺りに散らばる音を耳にしつつ、静かに息を整えていく。
 前方へ意識を集中させれば今も男の作業は続き、近寄るのは危険だと何となく分かった。
「……あの。もしかしてこの森の事を、知っているのですか?」
「俺は幼い頃、この辺りに住んでいたからな。しかし、この抜け道も随分と荒れたものだ……。あいつと駆け回っていた時には確か、こんな風には……」
 だからこそ声だけを向けると、男は悪戦苦闘しながらも手は止めずに答えてくる。
 全身を雨に濡らしつつも休まずに動き続けたかいもあってか、道を塞ぐ枝は少しずつでも着実に減りつつあるようだった。


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