箱 2



 それは最初は何なのか、全く分からなかった。 今まで見た事も聞いた事もないもので、目から入ってくる情報に対して理解が追いつかない。
 あえて言うなら、巨大な芋虫のようなものであろうか……。
 分厚い肉の塊に短い手足を持った、謎の生物が境内の中に何匹かいた。
 顔のような部分についている目は、有り余る肉によって埋もれている。
 鼻らしきものもあるが小さく、わずかに穴があるだけで人のものとは似ても似つかない。
 だが口は間違いなく人のものに見え、小さいが唇や歯のようなものも確認できた。
 耳だと思えるものはかなり小さく、目を凝らさないと分からない程だった。
 さらにその生き物は呻き声のようなものを盛んに上げ、もしかしたらそれで意思の疎通を図っているのかもしれない。
 他にも向かい合って会話をするかのように、その生物達は時折甲高い声を発する。 それは人が発する笑い声のようなものに近く、正直かなり不気味だった。
 しかもよく観察すると謎の生物の頭部には独特なしわが刻まれ、それはまるで顔のようにも見える。
 どうやらそれは個体ごとに微妙に違うらしく、どこか人間に近い部位を眺めていると吐き気さえ込み上げてきそうだった。
 そしてこの時になって、俺は初めて頭で理解する。 ここは自分がいた、元の世界では絶対にないのだと。
 きっとあの箱は別の世界に通じているもので、それを通って違う世界に来てしまったのだと考える。
 だとすると、この世界に人はいないのだろうか?
 もしかしてあの肉塊がこの世界の人で、俺は連中からしたら化物なのだろうか?
 この世界では俺が邪魔者で、連中こそ本来の住人なのか?
 果たして俺は無事なまま、ここから帰る事ができるのか?
 いくつもの疑問が頭の中に浮かび、俺はますます混乱していく。 そしてそのせいで、気が付くのに遅れてしまった。
 その時、その場にいた全員が俺の方を見ていた事に。
 連中は声も出さず、動きもせずに俺の方をじっと見ていた。
 一方で俺の方も指一本すら動かす事もできずに、石像のように固まっている。
 ただし動けない代わりに冷や汗だけは異常な程に流れ、まるで時が止まったように感じられた。
 しかし次の瞬間、肉塊の内の一匹が急に大声を上げて叫んでいく。
 それは恐らく悲鳴だと思うが、高音の叫び声はまるで超音波のように聞こえてきて俺は思わず耳を塞いだ。
 それに連鎖するように肉塊達は次々と叫び出し、そして四方に散らばってしまう。
 連中からすればここにいきなり現れた俺の方が異形の化物であり、逃げ出したという事なのかもしれない。
 対照的に俺はさっきの悲鳴で耳を傷め、おまけにひどい頭痛までしていた。 そのために思わずその場に座り込んで休憩したくなるが、それはすぐに思い直す。
 ここに長居してはいけないと強く自分に言い聞かせると、頭を振って頭痛をごまかしながら歩き出そうとする。
 そして一刻も早く元の世界に帰ろうと、再び物置の方へゆっくりとだが向かっていった。
 こんな所に来てしまったのがあの箱のせいならば、またあの箱の中に入れば戻れるかもしれない。
 確証があった訳ではないがどれだけ細くともその希望に縋り付かないと、そこでは正気を保つ事すら難しかった。
 だがそんな時、ふと何かの気配を感じた俺はとっさに近くの建物の陰に隠れていく。
 そこから少し顔を出して様子を窺っていると、ついさっき逃げたはずの肉塊達が戻ってきた。
 その後ろからは何と、体のより大きな肉塊が何体も新たに現れる。 そいつ等は前を歩く小さな肉塊より倍以上は大きく、手足も伸びていて顔のしわのようなものもはっきりとしていた。
 恐らく大きいのが大人で、小さいのは子供だったのだろう。
 子供らしき肉塊は涙のようなものを肉の隙間から流し、大人らしき肉塊にしがみついている。 本来ならば微笑ましく思える光景なのだろうが、こっちからすれば気持ち悪いとしか形容できない。
 あいつ等は俺を捕まえるために、大人を引き連れて戻ってきたのか……。
 そう思った俺は、とっさに彼等が来た方向とは逆に走り出す。 本来なら今すぐにでも箱に向かうべきだったが、当時は巨大な肉塊に恐怖を感じてそうしなかった。
 いや、正しくはできなかったのである。 ただでさえ判断能力に乏しい子供である上に、あまりに異様な世界にいきなり放り出されればそれもしょうがないのかもしれない。
 とにかく俺は元の世界に帰るのではなく、まずはここから逃げるという選択をしてしまった。
 そして肉塊が俺を探すのに集中している隙をつき、長い階段を下りて町の方に逃げていく。
 だがそれは、どうしようもなく愚かな行為だったとすぐに気付く。
 町はどこを見ても白一色で同じような形の建物が並び、どれもまるで見分けがつかない。
 おまけに犬や猫、鳥や虫などのような他の生物も一切見かけなかった。
 辺りには何の音もせず、俺の足音だけがいつもよりやけに大きく響いている。
 今さらかもしれないがそこは明らかに元の世界と違う、とてつもなく異様な場所だった。
 しかしその状況も長くは続かず、やがて明らかな変化が訪れる。
 俺の背後や前方、左右から何かを引きずるような音が聞こえてきた。
 ゆっくりとだが確実なそれは、少しずつでも俺に近づいているのがはっきりと分かる。
 それから俺がどうしたものかとその場で狼狽えていると、すぐに周りにはあの肉塊達が集結してきた。
 その数は神社で見た時よりも増え、群れを成して俺の事を追いかけてくる。
 とは言えその歩みはかなり遅く、あの芋虫のような体ではなかなか早い動きは出来ないのかもしれない。
 それでも決して俺との距離を詰めるのを止めようとはせず、そこにいるだけでじわじわと視界を埋め尽くしていった。
 おかげで恐怖に狂いそうになった俺は、少しでも連中を引き離そうといきなり走り出す。
 地理など分かったものではないが、そんなものは構いはしない。 目の前に広がる道をただ全力で突っ走り、何とか追跡を振り切ろうとする。
 だがどう逃げた所で、肉塊の数は減るどころかさらに増えていった。
 逃げた先で肉塊に鉢合わせする事も増え、徐々に逃げ道を失っていく。
 元からこちらは一人であるにも関わらず、連中は何匹いるのか分からない。
 すでに肉体的にかなり披露した俺は精神的にも追い詰められ、その走る速度も目に見えて落ちていった。
 そして体力に限界が訪れ、逃げる道もほぼ塞がれてしまうとどうしようもなくなってしまう。
 やがて俺は白く高い壁に囲まれた行き止まりに辿り着き、すぐに引き返そうと振り返る。
 しかしそこにはすでに肉塊達が充分に集まっており、連中は俺を見るとすぐに耳をつんざくような甲高い悲鳴を上げていく。
 それは仲間を呼ぶ特殊なものだったのか、すぐにでも肉塊達はその数を増やしていった。
 あくまでその速度はゆっくりとだが、時間の経過と共に道の端から端まで肉塊達で満たされていく。
 連中はまず俺の事をじろじろと眺め、気色の悪い声を次々と上げていた。
 そうする大きな肉塊の後ろには小さい肉塊達もおり、大きな肉塊の陰から俺の方を興味深そうに眺めている。
 中には近寄ろうとしていた奴もいたが、より大きな肉塊にそれを止められていた。
 それから俺も肉塊達も一定の距離を保ち、事態はなかなか進展しない。 てっきりすぐにでも襲いかかられると思っていたが、おかげで少しだけ落ち着きを取り戻していた。
 ただしだからといって妙案は浮かばず、その場から動けない。
 どうやら連中は俺の事をどうするのか、決めあぐねているらしい。 おかげで状況はかなり厳しいが、すぐにでも命を失うといった事はないように思える。
 それでももし連中に捕まってしまえばどうなるか、考えたくもなかった。
 俺は体の震えを無理にでも押さえ込むと、気持ちを高ぶらせて自らを奮い立たせる。
 そしてとっさに大声を上げると、おもむろに前のめりになって肉塊達に詰め寄っていく。 口から出ていたのも言葉や意味などない、ただの雄叫びに近いものだった。
 だが効果は絶大であり、彼等は大きさの大小を問わず次々に後ずさりしていく。
 未知の存在の異様さが怖いのはあちらも同じなのか、案外あっさりと逃げ道は開けていった。
 そうして俺はそのまま獣のような叫び声を上げつつ、あくまでゆっくりとにじり寄るように歩き出す。
 その途中では特に小さい肉塊を狙い、威嚇する事を忘れない。 相手はまだ幼いせいか、俺の叫び声を聞いた途端に甲高い悲鳴を上げて泣き出してしまった。
 するとそれに同調するかのように、大きな肉塊達も混乱の渦に呑まれていく。
 あれだけ音のなかった場も今は混沌としており、俺はそんな阿鼻叫喚の空間から逃れるように駆け出す。
 残りの体力がどれだけあるか分からないが、とにかくあの神社へ戻ろうとしていった。
 しかしどこをどう進んでも、最後に行き着くのは白い壁に囲まれた行き止まりでしかない。 どの道を進もうと、いくつ角を曲がろうと結果は変わらなかった。
 それでも俺にできるのは逃げる事だけであり、すぐに踵を返すと別の道を探そうとする。
 今は無事でいるが、いつあの肉塊達が再び迫ってくるか分からない。
 俺は行き止まりに道を阻まれる度に心を乱し、やがてさっきまで治まっていた恐怖や混乱も最高潮に達していく。 目には涙が溢れる程に溜まって、泣いていないのが不思議な程だった。
 恐らく体を動かし続ける事で正気を保っていたのだろうが、それもいつ破綻してもおかしくない。
 このままでは気力と体力のどちらが尽きるのが先か、あるいはどちらも唐突に切れてしまいかねない状況にまで追い込まれていた。
 そんな時、ある道の曲がり角で不思議なものを見つける。
 それは一見すると当たり前のように見慣れた、自分と同じ人の姿をしていた。
 だがそれが普通の人でないのも一目で分かり、安心感と同時に困惑も混じってしまう。
 その人は言うならばまるで幽霊のように儚く、透明感があった。 見た目や雰囲気から察すると、何となくだが女の人のように感じられる。
 その身には淡く光っているような衣を纏い、頭からベールのようなものを被っているために表情はよく窺えない。
 だとしても不思議と警戒心を抱く事はなく、根拠はないがいい人なのだと素直に思う事ができた。
 それもこの異様な世界で初めて自分と同じ人に出会えたからかもしれないが、とにかく俺は何も考えず近づいていく。
 対する女の人は俺をじっと見つめ、何も言わずにただ微笑んでいた。
 その眼差しは受けているだけで心地良く、どこか懐かしさのようなものすら感じられる。
 しかしそれも長く続くと、俺は怪訝そうに首を傾げていく。
 するとその人はやがてゆっくりと手を上げると、ある方角を指差していった。


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