亜渡徒磨餓 1



「はぁ……。はぁ、ふぅ……。少し迷っちゃったけど、多分この道で合っているんだよな……?」
 入り組んだ山道を歩く青年はひどく疲れた様子で、その場に立ち止まると顔から滝のように流れる汗を拭っていく。
 すでに時刻は夕方を過ぎかけ、頭上では空が徐々に暗さを増しつつあるのが分かる程になっていた。
「それにしても、やっとここに来られた。本当はもっと早く来るべきだったんだろうけど……。いや、よそう。もう日も暮れかけているんだし、急がないと……」
 だが青年はなおも前方を見据えたまま、それからすぐに歩き出そうと足に力を込めていく。
「待て。そこで止まれ」
「えっ……!?」
 するとその直後、いつからいたのか木陰から一人の男が姿を現した。 驚いた青年は思わず立ち止まり、相手の方へ目を向けていく。
 そこにいたのは三十代くらいの男で、隙のない姿勢と服の上からでも分かる鍛え上げられた体をしていた。 その目からは射抜くかのような鋭い視線が放たれ、青年に否応なしに突き刺さってくる。
「お前は……。どうしてここにいる? 村の者達には、山には決して入るなと言い伝えておいたはずだが」
「あの……。僕は、地元の人間ではないんです。今日も駅からここまで、直接歩いてきて……」
「そうか。旅行者か」
 やがて男は木陰から完全に出てくると、話しながら青年との距離を縮めていった。
「いえ。少しの間だけですが昔、この辺りに住んでいた事があります。今日は親類の墓参りのつもりで……」
「ん……。この山に墓があるのか?」
「いいえ、でも最後に目撃されたのがこの山なんです。だから、ここに来るしかなくて……。山の中に神社があるらしいので、せめてそこまで行こうかと……」
 青年の方はわずかに後ずさりしつつも、相手から目を離さず話し続けていく。
「そうか。まぁ、来てしまったものはしょうがない。とにかくついて来い。案内してやる」
 一方で男は話自体に飽きたかのように背を向けると、振り向きもせずにさっさと歩き出してしまう。
 その場にぽつんと取り残された青年は、初めの内はどうしたものかとしばらく立ち尽くしていた。
「あ、えっと……。は、はい……」
 しかしそうしている間にも辺りは暗さを増し、辺りにある剥き出しの自然はどんどん色の濃さを増しつつある。
 すぐ側から聞こえてくるのも風や草木の葉が擦れる音、あるいは虫の鳴き声ばかりでどこか落ち着かない。
 むしろそれらに急かされるようにして、青年は小さくなった男の背を追って歩き出していった。

「ふぅ……。はぁ、はぁ……」
「どうした。少し歩くのが早かったか」
 それから青年が険しさを増していった道なりを何とか進んでいくと、坂の先の方から声をかけられる。 まだわずかに残る夕陽を背に浴びる男の顔や体は、影を纏ってやけに黒ずんでいるかのようだった。
「あ、いえ……。大丈夫です。それより……。あなたはどうしてここに?」
 そのせいで青年はやや驚いたように目を丸くし、口を濁しながらも何とか応対する。
「約束を果たしに来た。古い……。そう、昔の馴染みの奴とのな……」
 一方で男は落ち着き払った様子のまま、遠くを眺めるように目を細めていく。 横に向けた顔にはわずかに陽が差していくが、その表情は晴れているとはとても言い難いものだった。

 やがてほぼ日が落ち切った頃になって、ようやく二人は山中にある神社へと辿り着く。
 だが鳥居は朽ちかけて今にも倒れそうで、境内はもちろん社など全てがぼろぼろになっている。 人の手が離れて少なくない時間が経過しているらしく、雑草や枯れ枝などもそこら中に散乱していた。
 青年がそんな辺りを困惑しながら眺めていると、また男に唐突に声をかけられる。
 すぐにそちらへ向かった青年が目にしたのは、しゃがみ込んだまま何らかの作業をする男の姿だった。
 男は荒縄を円形状に幾重にも巻いて、その上から読む事のできない文字や紋様が書かれた札を何枚も貼っていく。
 それは内と外を異なる場所として隔絶し、後から入ろうとする何者をも阻むかのように仕立て上げられているようにも見える。
 空気の流れさえ遮るような静謐さすら感じるそれは、さながら神聖な結界のようでもあった。
「よし、お前は今からこの中にいろ。外で何が起きても決して出てくるな。それと俺が言ったら目を瞑って、いいと言うまで絶対に開けるな」
「え……。そんな、いきなり……。それって、いつまでなんですか?」
 そして言われるがままに青年が円の中に入ると、男は仕上げと言わんばかりに周囲にさらに札を追加していく。
「いいからさっさと入れ。時間はそうだな……。今夜が明けるまで、だな。どっちにしろ、その頃には全て終わってるはずだ」
「は、はぁ……。まぁ、仕方ないですね。山の中で遭難するよりはましか……」
 その真剣な表情と態度は有無を言わさずといった様相で、事情が分からないにしても従うより他がないかのように思われた。
 それにここまで暗くなってしまえば今さら山を下りるより、ここで一夜を明かした方が安全な面は確かにある。
 青年が諦めたように溜息をついていると、男はまだ形を保っていた石灯籠に火を灯していった。 電気の明かりに比べればほんの些細なものであったが、それによって仄かな明かりが辺りを赤く染め上げていく。
 次に男は神社の外周に沿うようにして、何かの入った小さな籠を等間隔に置いていった。
 がたがたと動く籠の中にはどうやら猫が入っているらしく、距離が離れていても小さな鳴き声が耳に入ってくる。
「それは……。何なんですか?」
「あぁ、そうだな……。鉱山のカナリアって知ってるか」
「えぇ……。確か坑道などに入っていく時、人間より先に有毒なガスを吸って真っ先に死んでいく。そんな身代わりのような……」
 不思議そうな顔をした青年が思わず尋ねかけると、男は作業を続けながら答えを返していった。
「こいつ等もそうだ。身に迫る危険を真っ先に教えてくれる。あれがいずれここを目指して来るのは分かっているんだが、不意打ちだけは避けたいんでな……」
 その視線は今も刻々と濃さを増しつつある辺りに向けられ、緊迫感のある表情は強い警戒心を窺わせる。
「本当は入れておくのは鳥でも、犬でもいいんだが……。やはり、夜目が効く方がいいんだ」
 そして籠を設置し終えた男は本殿の方まで歩いていくと、その前に置いてある荷物の山から何かを取り出す。
 それは藁の束を紐で大の字に組み上げたものであり、大きさや形などを見ると人を模しているようにも思える。 体の各所には大仰な文字が書かれた札が幾枚も貼られ、目の辺りにも小さいが同じような札が垂れ下がっていた。
 ただしそれは他の部分とは違い、両目のそれぞれに数十枚はあろうかと言うくらい分厚く重ねられている。
 ある種異様なその藁の人形を掴んだ男は、それを境内の端へ置くとまた荷物の山の方へと戻っていった。
「あの……。結局、ここで一体何が起きるんですか?」
「そうだな……。どうやらまだ時間がかかりそうだ。時が来るまで、少し話をしているのもいいだろう」
 そして不安と疑問をいくつも抱え込んだ青年の声に対し、男はふと荷物を紐解いていた手を止める。
 ある程度は開かれていた荷物からは鞘に収められた刀や、鈍い金属の光沢を放つ錫杖などが何本も覗いていた。
 それらは鑑賞目的や装飾品の類ではなく、明らかに何かと戦うという目的のためだけに用意されたかのように思える。
「亜渡徒磨餓。この名を聞いた事はあるか」
「あととまが……。いえ……。残念ながらありません」
「そうか。これは現代の言葉に言い換えるなら、そうだな……。逆神、か」
「さかがみ……。そちらも今まで耳にした事はありませんね。何なんですか、それは?」
 ゆっくりと立ち上がってから振り返った男は、そのまま不思議そうに首を振る青年の前まで歩いてきた。
「この世にある、ありとあらゆるものの中でも特に高位な存在。それが何かしらの理由により、ひどく低位にまで貶められたとする」
 その手にはジャラジャラと音を鳴らす錫杖を手に、男はその場にどかっと座り込む。
「仮にそうなっても、全てがそうなる訳ではないが……。極稀に顕れるんだ。この世も、そこにある全てのものも。何もかもを恨み尽くすような、凶事の権化がな……」
「それは……。僕もあまり詳しくはないのですが……。もしかして怨霊、のようなものなのでしょうか」
「そうだな。成立する経緯や攻撃性など、似通った部分もあるのかもしれん。だが逆神はやはり違うんだ。元からな……」
「元と言うと……。高位なる存在。例えば神、などでしょうか?」
 続く男のあまりに真剣な話し方に、青年の表情や体も自然と強張っていった。
「あぁ。神と言えど、現世にある以上は人の世の流れにその存在を大きく左右される。国の方針、政の思惑。そんなものに流され、消えていった神も少なくない」
 それから男はふと顔を横に向けると、今は寂れて崩れかかった社の方へと目を向ける。
「特にそれまでその国にはいなかった外来の神などは迫害されやすかったからな。逆神になる条件が揃いやすいとも言える」
 そしてそう言い終えると考え込むように口をつぐみ、一息ついた後に改めて口を開いていった。
「遠い昔……。この地方には大陸から移住してきた人達が多く住んでいたらしい。彼等がここに持ち込んだのは様々な物や知識。他には独自の神や信仰などもあったのだろう」
 神妙な語り口から始まった声は、静けさを保つ境内に密やかに響き渡っていく。
 平時ならば獣や虫、あるいは風などが発する音がするのだろうが今は不思議とそれらが完全に止んでいる。
「それらの多くはきっと、当時の人達の間に少しずつ馴染み……。いくらか軋轢や衝突はあっても、やがて一つに合わさっていったはず」
 おかげで声量はそこまで大きくなくともよく通り、青年も言葉も挟まずじっと聞き入っていた。
「だがその中でも、ある神……。ただ、それだけは違った。それは元からこの地にいた、古き者達と折り合いが付かなかったのか。あるいは、人同士の諍いが原因かもしれない」
 そんな時、不意に男の語気がわずかだが強さや重みを増したように感じられる。
「とにかくある時からそれは、逆神となって人に仇為す存在となり……。誰からも疎まれ、恐れられ……。やがて、存在すら望まれなくなっていった」
 続けて男がそう言いながら目を動かすと、すでに少し先も見通せないくらい暗くなった暗闇を見つめていく。
 そこには石灯籠から発せられる光すら届かず、ただ何もない無が広がるばかりとなっていた。


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